夜更けの忍者 赤茶毛

 

 

 女は思わず、ハッと息を呑んで立ち止まった。

(あれは…)

 女が見ているのは、小路のはずれに建つ廃屋である。壁も屋根も穴だらけで、もう何年も住む者とてないそのあばら家の戸口から、見慣れぬ男が顔を出していた。

 短い秋の日は落ち、すでに夜更けと言っていい時刻である。女は湯屋に向かうところだった。湯屋は女の家の勝手口からほんの目と鼻の先ゆえ、気楽に出てはきたものの、女の一人歩きにはいささか心細いような宵闇が、小路をすでに薄墨色に染めかけていた。

(…曲者?)

 体格の良い、赤毛の若い男だった。顔はよく見えないものの、古くからこの近在に住む者でないことは、一目で分かる。この界隈に、あんな風体の男はいない。

 男は戸口から半身を乗り出し、落ち着かなげに辺りの様子を窺っている。明らかに、人目を憚る様子であった。

(どうしよう。とにかく、早く誰かに知らせなくては。)

 近くに電話はあっただろうか。早鐘を打つ胸を抑えながら、女はそっと後退りし、勝手口に戻ろうとした。

 そのとき。

 ふいに、男の顔がこちらを向いた。

(気付かれた?)

 女の背筋を、冷たい汗が伝う。

 だが、赤毛の男は、女を見ていたわけではなかった。男の鋭い視線の先には、宵闇に溶け込むようにじっと物陰に身を伏せる、全身黒装束の男がいたのだ。

 黒装束の男が、音もなく廃屋へとにじり寄る。赤毛の男は、その額にぴたりと目を据えた。

(危ない!)

 伝わってくる殺気に、女は思わず目を閉じた。続いて繰り広げられるはずの、激しい切り合いの場面を正視する勇気はなかった。

 しかし。

 短い沈黙の後、女の耳に聞こえてきたのは、廃屋の床の軋るかすかな音だけだった。他には声ひとつ、刃物の音ひとつ聞こえない。

 女は目を開いた。廃屋の前には、猫の子一匹いなかった。目を凝らすと、廃屋の窓を覆う煮しめたような色の古布が、微かに動くのが見えた。赤毛の男は廃屋の中に戻ったのだ。

「お嬢さん。」

 思いがけず、ごく近くから声を掛けられて、女は我に返った。

 渋みのある男の声であった。若くはない。五十がらみといったところか。

湯屋なら今のうちに。――だが、こんな時間に、感心いたしかねますな。」

 いつの間にか、黒装束の男が女の隣に立っていた。黒い頭巾を目元まで引き下ろしていて、人相は分からない。だが、頭巾の下からのぞく鼻筋の白さが、何か高貴な印象を与えていた。

 女は黙って頷いた。男の無駄のない、しなやかな身のこなしは、彼がただの町人ではないことを示している。女は思わず頬を染めた。その正体に思うところがあったのだ。

(もしかしてこの方が、あの、噂の、怪傑黒頭巾さま――。)

 

 

 

 うるさい。

 

 だが、この事件の後、女の周囲には、奇妙な影がちらつき始めるのだ。

 いや、「影」の狙いは、女ではなく、それ以来、彼女の身辺をそれと悟られぬよう密かに警護している、怪傑黒頭巾なのかもしれない。

 女は考えた末、訳知りの者たちにこの一件を知らせた。だが、話してはみたものの、実際に証拠となるものは何一つない。女の話を信じる者もいたが、ではその赤毛の男の企みは何であったのかと問われると、女には返す言葉がなかった。女は自分が、ただの物笑いの種であることを知った。人々から女に返ってきた言葉は、焦るな、と、ただそれだけであった。

 そう。確かにそのとき、女は急いでいた。早く湯屋に着こうと焦っていた。

 しかも、

(あー、アカン。すっかり弱くなった。)

 女は酔っぱらっていたのである。

 あれは、黒頭巾様を慕う女の、酔った頭が描いた夢物語だったのか。

 いや。そうではない。女は直感していた。近いうちに、自分はどこかで、あの赤毛の男と対面することになる。そのときこそ、彼女に侍る怪傑黒頭巾が、正義の怒りを炸裂させることになるのだ、と。

 

 

 アルコールに弱くなったのは事実だが、このごろは自覚があるので、必ずチェイサーを入れながら飲んでいる。昨日も、お店で勧められた「新規入荷のりんごジュース」とやらを同時進行で楽しんでいたお陰だろう、ワインを二杯飲んでも、帰宅後は元気であった。

 猫たちの世話をつつがなく終え、お風呂――は、さすがに危ないと思ったのでシャワーを浴び、就寝したのが十一時半過ぎ。別に早くはないが、飲んだ後の私にしては快挙である。

 しかし。

 やはり、アルコールが入ると、眠りが浅くなる。一時間か一時間半ほどで、早々に目が覚めてしまった。

 目が覚めたら、これはお約束であろう、例の場所に行く。

 まだ朝まで時間があることは分かっている。すぐに寝直すのだからと、そのときは珍しく、眼鏡をかけずに寝床を出た。

 私は強度の近視である。眼鏡をかけないと、ほぼ何も認識できないに等しい。だが、そこは勝手知ったる家の中である。特に苦もなく、まずは例の場所に行き、その後、水を飲んでから布団に戻ることにした。

 台所に入り、灯りをつける。そして、水を汲もうとシンクに向かった瞬間、

「うわっ!」

 びっくりして、思わず声が出てしまった。

 何者かが、LD側の食卓からカウンターを踏み越えて、シンク内に侵入しようとしている現場に出くわしたのである。

「こら!降りなさい。」

 食卓も、カウンターも、調理台やシンクも、我が家は猫立ち入り禁止である。思わず怒鳴ってしまってから、改めて事の重大さに気付いた。

 曲者は、あの赤毛の男――即ち、忍者赤茶毛だったのである。

 

 

 

 

 いったい何がいけないと言うんだ?

 と、言わんばかりに、思い切り不可解そうな顔をして。

 赤茶毛はさして慌てもせずに、カウンターから食卓の上を歩いて、黙ってケージへと戻って行った。

 以降、沈黙。

 彼は何をしに来たのだろう。

 生ごみかな?そういえば、焼き魚の骨があったかも。でも、特にそこを狙っているようにも見えなかったな。

 一応、生ごみを漁れないように蓋をして、私は水を飲み、寝床に戻った。

 怪傑黒頭巾はその間、私の陣地を防衛しつつ、聞き耳を立てていた。

 ちなみに、黒頭巾さまは、生ごみを漁るような、はしたない真似をしたことがない。

 

 

 その夜。

 私はもう一度、忍者赤茶毛に逢っている。――多分。

 一度目覚めた後も、やはり寝つきが悪くて、二時半頃にまた同じことを繰り返した記憶がある。そのときは、もう朝かな?と思って時計を見たら二時半だったので、それは確かなのだ。

 そのときも、忍者赤茶毛を見た。

 だが、どこで、どういう状況で、何をしている彼を見たのか、とんと記憶にない。二回続けざまに遭遇した衝撃が強すぎて、その後の浅い眠りの中で、いろいろなパターン、いろいろなシチュエーションで、赤茶毛に遭遇する夢をいくつも見てしまったせいだ。最後の方では、これは夢だと薄々気付いていたのだが、その夢うつつの中で、

(何だかいろいろ見過ぎて、どれが現実だったか分からなくなっちゃいそうだな。)

と、妙に客観的に考えたのを覚えている。

 そのまま眠りに落ち、本当にどれだか分からなくなった。と言うより、むしろ、夢の内容を全て、現実のものも一緒に、きれいさっぱり忘れ去った。

 だから、二回目は「多分」なのである。

 だが、夢にしろ現実にしろ、忍者赤茶毛は常に、音もなく気配もなく、予想外のところに突然出現する。彼は平然と私を眺め、慌てる私が彼を認識するかしないかのうちに、音もなく消え去ってしまう。証拠写真を撮るいとまを与えずに。

 そして、追いかけた私が覗き込むケージの中には、

(お外なんて絶対嫌です。ぼくは断じて、ここから出ません。)

と言わんばかりに、必ず覆いの陰になるところにじっと腰を据えている、内気な引きこもり青年の姿があるのだ。

 この気弱青年が、神出鬼没・大胆不敵な、夜更けの忍者赤茶毛の、世を忍ぶ仮の姿であると、誰が想像するだろうか。

 いや。

 ひとりだけいる。その気弱の仮面を見透かしている者が。

 猫山家のお庭番、怪傑黒頭巾である。

 

 

 すいませんね。ウチ四階なんで。

 

 

 午前五時五十九分。

 私が最後に、忍者赤茶毛に逢った時刻である。

 彼は例によって意表を突き、大胆過ぎる角度から、女と黒頭巾に忍び寄っていた。

 気付いた時、女は、自らの目を疑った。

(まさか…)

 彼のいた場所は、ふたりが一緒に寝ている、正にその枕上だったのである。

 アラームに先んじて目を覚ました私は、頭上に茶色の小山ができていることに気が付いた。

 はじめは、それが何なのか分からなかった。昨夜、衣類でも置いて寝ただろうか。いいや、違う。そんな記憶はない。

 ということは。

 もしかして――

 慌てて眼鏡を手探りする私の眼前で、小山は動く丘となり、私が眼鏡を掛け終わるより早く、寝室の外へと消え去った。

 あっという間の出来事であった。

(今のは、夢だったのだろうか。)

 いや、夢ではない。

 奴は確かに、そこにいたのだ。

 赤茶毛は、私に会いに来たのか。それとも、黒頭巾と果し合いに来たのか。だが、今朝は黒頭巾も、彼を黙って見逃している。

「おはよう、茶トラくん。」

 寝床からリビングへと起き出した私が、ケージに指を差し込むと、気弱青年は申し訳程度に指の匂いを嗅いだ。そしてすぐ、後退りして私から逃げた。

 

 

 黒頭巾は、昼間も気弱青年を警戒している。

 廃屋を遠巻きに眺めながら、常に出入り口の監視を怠らない。

 

 

 いや。

 怠ってるな。(笑)

 

 黒頭巾は知っているのだ。廃屋の中の気弱青年が、昼間は決して、忍者赤茶毛に変身しないことを。

 黒頭巾の洞察は鋭い。実際、気弱青年は、昼間は廃屋の四階で、呑気に惰眠を貪っているのである。

 

 

(寝ている写真が撮れなかった。カメラを向けると起きる。)

 

 

 夜更けの忍者、赤茶毛。

 確かに、私はこれまでに少なくとも二回、赤茶毛を目にしている。それらは、いずれも夜中である。

赤茶毛は夜にしか現れない。しかも、彼が姿を現すとき、私は常に、その姿をはっきりと識別できる状況下にないのだ。

 ド近眼の人間が、薄暗がりの中で誰かを見たら、それはどのように見えるか。

 だいたいの色味と、極めて大雑把な大きさだけが把握できる。顔だちも性別も、はっきりした背格好すら判別できない、それはいわば、視界に煙幕を張られたような状況である。

 忍者赤茶毛は、やはり只者ではない。彼は敵にセルフ煙幕を張らせるという、実に高度な忍術を使って、自らの正体を隠しているのだ。

 怪傑黒頭巾も、そんな彼を侮りがたしと見て、慎重に機会を窺っているのだろうか。

 

 

 ところで。

 歴史が常に勝者の歴史に過ぎないように、この話にも、実は正邪を入れ替えた別の説が存在する。

 昼間は、気弱な引きこもり青年。夜は、大胆不敵な忍者、赤茶毛。

 そして、赤茶毛の悪事を暴き、気弱青年の仮面を引き剥がそうとする、正義の味方、怪傑黒頭巾。

 でもね。

 こう言っちゃナンだが、忠臣蔵は別として、黒装束って、たいてい悪者なんだよ。

 別の人が語る。

 故郷を失った赤毛の若者が住み着いた廃屋は、実は、窃盗団のアジトであった。盗っ人黒頭巾は、若者を恫喝し、そのわずかな食糧を奪おうとする。気弱な若者は、自由と正義を求めて立ち上がり、忍者赤茶毛に変身して、黒頭巾に戦いを挑む、もとい、交渉をもちかける。(今どきの平和主義ヒーローであるらしい。)

 うん。多分、こっちの説の方が、説得力がある。何しろ証拠写真があるんだからね。