BASSHI BUT…



 

 私は途方に暮れていた。
 十月十四日土曜日の昼前。冷たい霧雨が降るか降らないか、危うい空模様の街角。
(私は、どこに行けばいいのだろう…。)
 足早に行き交う駅前の人混みの中、無情にぴたりと閉ざされたガラス扉の前で、私はひとり、ただ立ちつくす。
 馴染みのスーパーが、数日前に閉店してしまったのだ。
 いや、閉店したことは知っていた。閉店した日の夜に前を通って、自分の目で確認もしていた。だから、もうそこで買い物ができないことは十分承知していたはずなのだが、いざ買い物をしようと思い立つと、じゃあどこに行こうか、と、やはり途方に暮れるのである。
 私は普段、食材を生協で購入している。だから、スーパーで買い物をしなくても、基本的に食べるに困るようなことはないのだが、
(でも、今日はどうしても、買い物がしたい。どうしても買いたい。)
 端的に言えば、酒を、である。
(だって今日は、祝杯を上げるのだから。)
 そう。
 今日はアタゴロウの抜糸の日なのだ。
 
 
 金曜日のはずの抜糸が、土曜日になった。
 その主な理由が、カビの培養検査のためであることは、前回書いた。
 金曜日であったら休みを取らなければならなかったので、この変更は、ある意味、私にとっても都合のよいものであったのだが、いかんせん、急な話であるため、私はすでに土曜日の午前中に予定を入れてしまっていた。
 しかも、培養検査の結果が出ているかが、かなりきわどいところである。そんなわけで、その気休めを兼ねて、動物病院には午後の診療時間に行くことにしていた。
 午後の診療は四時からである。休日だから混むことを予想して、四時を過ぎたら間もなく病院に飛び込み、抜糸を終えて、五時か、遅くとも六時には帰宅する。カラーが取れて元気いっぱいのアタゴロウを写真におさめ、「抜糸完了!」の簡単な報告をブログにアップして、あとはお風呂上がりの美味しい一杯をいただきます、というのが、私の計画であった。
 恨み事を言うわけではないが、実は、私はその前の週の金曜日、職場の人たちと、新宿のホテルで食事会の約束をしていた。(ちなみに幹事は私である。)大変楽しみにしていたのだが、アタゴロウの退院と被ってしまったため、泣く泣くキャンセルしたものである。そのささやかなリベンジも含めて、アタゴロウの抜糸の日には、家でひとり祝杯をやろうと決めていたのだ。
 結局、駅ビルの中の高級系スーパーに立ち寄り、散々さまざまな商品を眺めて楽しんだ後、結局、変わりばえしないのだが、いつもの「澪」の三百ミリ瓶と、お惣菜を一品、それにチーズとスイーツを買って帰宅した。
 こういう買い物は、楽しいものである。
 この勢いで、自宅にある食材で、料理も楽しくできちゃうだろう。家呑み万歳、である。
 白状すれば、この時点で、当のアタゴロウくん自身にも美味しいものを食べさせてあげたいという、普通なら当然考えるべき優しい心遣いに、私は一切、思い至らなかった。
 だが、いいじゃないか。どのみちアタゴロウは療法食しか食べられないのだし、エリカラが取れて自由の身になるだけでも、相当嬉しいはずだ。
 私自身はむしろ、大玉サンドの労働から解放されることが嬉しかったのである。 
 
 

(抜糸直前)
 
 
 動物病院は、空いていた。
「猫山さん、奥の診察室へどうぞ。」
 実は、どこの診察室か聞き逃したのだが、聞かなくたってもう分かっている。院長先生は、いつも奥の診察室にいるのだ。
「こんにちは。」
 診察室に入ると、院長先生がにっこりと微笑んで迎えてくれた。私ももう、すっかりお馴染みさんである。いや、先生的には、何をしにきたか分かっている患者だから、気が楽だっただけなのか。
 しかし。
 こうして見ると、この先生、けっこうイケメンじゃないの。(一部サイトでは、最初から「イケメン獣医師」と書いてある。)
「どうですか。元気ですか?」
「はい。もう、すっかりマイペースでやってます。――あの、培養検査はいかがでした?」
 先制攻撃で、まずそこを突っ込む。大事な点である。
「今のところマイナスです。ただ、このところ寒いですから…。」
 それだけ聞けば、充分である。私の中ではすでに、カビ男は「シロ」の判決なのだ。
「痒がってますか?――いや、カラー付けてるから分からないかな?」
「特にそこを気にしている様子はないです。」
 院長先生はまず、その「皮膚炎」の部分を検分して、
「どうやら、剥がれてきそうですね。このまま自然に剥がれてきたら、まあ、悪いものが取れたと思ってください。」
 前回、カビの疑いとされた部分は、その剥がれそうなカサブタ状のものの辺縁部である。これは単に、カサブタの縁が乾いてカサカサしているだけではないのか。
「良かった。もしカビだったら、まだカラーを付けておかなければならないんでしょう?」
 以前、かかりつけの先生のところで聞いた知識である。カビは猫自身が患部を気にして舐めてしまうことで、全身に広がってしまう、と。
 ところが、院長先生は、私が思ってもいなかったことを口にした。
「あ、いずれにしても、今日、カラーは取れませんよ。まだ数日、付けておいてください。」
 え…!?
 抜糸したら、カラーは取れるんじゃなかったのか。
「うん。傷口は順調に綺麗になってますね。じゃあ、抜糸できるところまで取ってみましょう。」
 ついでに、抜糸も終わらないかもしれないのだった。
 
 
 そして、待合室で待つことしばし。
「猫山さん、どうぞ診察室へ。」
 再び診察室に入ると、アタゴロウはすでに、キャリーの中だった。
「糸は全部取れました。でも、糸のあったところに穴が開いていますからね。穴がふさがるまで、一日か二日、まだカラーは付けておいてください。」
 へえ、そうなのか。
 ムムの避妊手術の時も、玉音の誤飲による開腹手術のときも、抜糸と同時にカラーは取れたように記憶しているのだが。穴があるのは同じだと思うけど。
 ま。
 場所が場所だけに、慎重にならざるを得ないのかもね。
 そういえば、かかりつけの先生も、「カラーが取れたとたんに、舐めて舐めて、血が滲んじゃった子もいる」という話をしていたし。
「二日くらいしたら、外していいんですね?」
「ええ。いいですよ。」
「あの、培養検査の結果は…?」
「ああ、それなら、電話してくれればいいです。四〜五日したら電話してください。」
「あ、はい。分かりました。」
 電話、くれるわけじゃないんだ。
 いや、かかりつけの先生もそうだったけど。
 今にして分かる。玉音の培養検査のとき、電話がかかってこなかったわけ。
 培養検査であるから、生えてきて初めて「カビだ」と確定できる。生えてこなければ、いつまでも確定には至らないわけだ。「シロでしたよ」という連絡は、なかなかしづらいものと思われる。
 と、いうことは。
 多分、院長先生も、内心ではシロだと確信しているのだろう。
「ありがとうございました。」
 いつもどおりに挨拶して、アタゴロウの入ったキャリーを背負って、診察室を出た。
 
 
 しばらくしてから、気が付いた。
 そうか。
 もう、この先生と、会うこともないんだな。
 もうちょっと、ちゃんと挨拶しておけばよかった。
 せっかく(少しは)仲良くなったのに。惜しい気もする。イケメン獣医師だし。
 八百屋お七の気持ちが、少しは分かるだろうか。いや、分からないな。
 次にこの先生に会う時は、うちの連中の誰かが、大きな病気をした時だ。ちょっとそれは、ご勘弁願いたい。
 そう考えると、高度医療の病院の先生というのは、ほんの少し、切ない商売なのかもしれない。常に出会いと別れの連続なのだから。それが良い別れであれ、悪い別れであれ。
 
 

(抜糸後)
 
 
 帰り道。
 自転車を漕ぎながら、真剣に考えていた。
(砂を戻してもいいか、訊くの忘れた。)
 そう。
 一番大事な(?)ことを、確認し忘れていたのである。
「穴が開いている」というのは微妙な状況である。そんな小さな穴くらい、気にしなくていいだろう、という気もする。だが、そもそも崩れる木の砂を禁止された理由は、細かいおがくずの粉が傷口に付着すると取れないから、である。小さな穴でも、粉が付着する可能性はあるのではないか。
 結論が出ないままに、家に到着した。
 リビングに入り、キャリーの蓋を開けて、最初にびっくりしたこと。
 カラーの色が、変わっていた。
 いや、カラーが変色したわけではない。新しいカラーに付け替えられていたのである。
 もしかしてこれは、アタゴロウが入院中に付けていた二重カラーの片割れなのだろうか。まさか。そのためにわざわざ取っておいたりはしないよね。
 と、いうことは。
 新品か。
 たった二日のために?今までのカラーだって、充分、まだ使えたのに。
 お大尽だなあ。さすが猫専門病院。(それは多分、関係ない。)
 キャリーから飛び出したアタゴロウは、いつになく私を警戒しつつ走り去った。多分、抜糸が不愉快だったんだろうな、と思った。
 それでも、少し時間をおくとアタゴロウも落ち着いたらしく、姿を現して、いつもどおり、私に甘え始めた。
 頃合いを見計らって膝の上に抱き上げ、抜糸後の状態を確認する。
 穴って、どのくらい目立つものなのだろう。塞がったとか塞がらないとか、容易に肉眼で分かるようなものなのだろうか。
 ところが。
 興味津々で覗きこんだ私の目に飛び込んできたのは、違うものであった。
 抜糸前の傷口は、血が固まった真っ黒なカサブタに、途切れ途切れに覆われていた。カサブタは当初、全体に繋がっていて、糸もその中に埋もれて見えなかったのだが、日が経つにつれ少しずつ剥がれ落ち、すでに糸が露出していたものである。
 抜糸前の残ったカサブタの中に、ひときわ大きな塊があった。
 その大きなカサブタは、抜糸の都合であろう、取り除かれていた。
 お陰で抜糸は完了したわけだが、その大きなカサブタを取った痕が赤くなり、わずかに濡れた色をしていたのである。
 院長先生の名誉のために一応断わっておくが、赤くなっていたと言っても、血が出るほどではない。自分でもちょっとした怪我のカサブタを、ついつい気になって剥がしてしまい、あ、しまった、まだ早かった、と、後悔することがあるが、そのヒリヒリ状態だと思ってくれれば良い。
 いずれにしても。
 糸の穴どころではない。その濡れたような赤い色を見てしまった以上は、トイレ砂の交換は、とても非現実的に思われた。
(少なくとも今は、替え時じゃないよね。)
 糸の穴が塞がるのには「一、二日」と、院長先生はおっしゃった。この赤みが消えるのにも、二日くらいはかかるだろう。それまで、砂の交換はお預けである。
 と、いうわけで。
 
 
 ああ。
 結局。
 今日という日が過ぎても、抜糸が終わっても、日常生活上、何も嬉しい進展はなかった。
 私にとっても、アタゴロウにとっても。
 
 

カサブタの痕。十月十五日撮影。一日経ってこんな感じ。)
 
 
 すっかりやる気をなくした私は、ブログ更新を翌日回しにし、半分やけになりながら、大玉サンドのトイレを掃除した。
 そこで、やる気をなくしたお陰で、翌朝、まさに踏んだり蹴ったりのことになるのだ。
 つまるところ、出掛ける前はすっかり大玉サンドとお別れする気でいたため、トイレの傍にペットシーツを一枚しか用意していなかった。そう。トイレの前に敷く分を忘れたのである。
 そんな私の痛恨のエラーを狙っていたかのように、翌早朝、大治郎氏は久々に、ホームランと見紛う大ファウルを放った。
 しかも、ご丁寧に、多分彼自身だと思うのだが、そのファウルボールを踏みつけにしていたのである。
 
 
 ところで。
 あれほど楽しみにしていた一人祝杯は、どうしましたかって?
 ええ、そりゃ。予定どおり遂行しましたよ。祝うことは何もなかったけど。
 だって、スイーツ買っちゃったもん。これはその日のうちに食べないと。
 スイーツと酒は関係ないだろう、とか、細かい突っ込みは、この際、ナシにしてもらいたい。
 まあいわば、やけ酒に近い形となったわけだが、お陰で、いい気分になって眠りにつくことができたのだから。(翌朝、悲劇が待っているとも知らず。)
 酒屋お澪のお陰で、八百屋お七にならないで済んだ。そういうことに、しておこう。
 
 
 

(抜糸一日後)

 
 
 
 
 

カビ男の逆襲


  
 
 我が家で不評の「大玉サンド」。
 それでも、猫たちは何となく慣れてきたらしく、今では三匹とも、ごく普通に用を足している。
 三匹の中でも玉音嬢は、最初から特に何の抵抗も示さなかった。やはり、血統正しき野良のたしなみとしては、トイレ砂ごときにとやかく言うなど、はしたないとされるのであろう。
 アタゴロウは、何しろ、退院してきたら砂が変わっていたので驚いたのかもしれない。退院直後、落ち着かなげにうろうろしていたのは、「このトイレ、使っていいのかな?」と、判断つきかねた結果だったのだろうか。だが、彼にとってもっと深刻な問題は、大きなエリカラがトイレの入口にひっかかることであった。この非常事態に直面しては、とても砂にいちゃもんをつけている場合ではなかったものと思われる。
 一番問題となったのは、大治郎氏である。
 こうした場合、えてしてこいつが一番、抵抗を示す。ジジイは気難しいのである。
 彼の名誉のために黙っていようかとも思ったのだが、実は、当初、彼は大玉サンドの上に「大」をすることができず、常にトイレの前に危険物を放置していた。私はたまたま、投下の瞬間を見たのだが、彼はトイレの前でためらい、前足を踏み入れたところで、奥まで進む決心がつかず、結果的にお尻がトイレからはみ出したままに、自らの思うところを為していたのである。彼はとにかく胴体が長いので、「大」のときは、きっちり奥まで進まないと、ホームランと見せかけて大きなファウルだった、ということが簡単に起こる。彼の危険物放置は、決して嫌がらせではなく、不幸な事故であったと言っていい。
 この事情を知ってしまったら、とても怒る気にはなれない。そこで私は、自ら「トイレの前にペットシーツを敷く」という自衛策を講じることで、全てを不問に付すことにした。
 このごろでは、彼もファウルではなくホームランを放っているのだが、今となっては、私はむしろ、彼にファウルを打ってほしい、とさえ思う。
 そのくらい、「大玉サンド」はやっかいなシロモノなのだ。
 
 

(大玉サンド)
 
 
 そもそも、私がシリカゲル砂を選択しなかった理由は、「実は扱いが難しいから」であった。
 特に、猫が下痢をしているときには。
 私が今の家で猫を飼い始めた当初、その初代猫のミミさんは、保護当初に下痢をした。もう記憶が曖昧なのだが、そのとき、私はシリカゲル砂を使っていたのではないかと思う。その始末に散々苦労をして、シリカゲルを放棄したのではなかったか。
 シリカゲル砂の落とし穴は、水洗トイレに流せないというところにある。
 猫がしっとりコロコロのしっかりウンチをしている時はいい。「つまんで流すだけ」で、確かに、楽なことこの上ない。
 だが、下痢便や軟便で、砂がべったりウンチに付着する事態になってしまうと、これはもう、悲劇としかいいようがない。ミミの下痢の時、私はそれをどのように始末したのだろうか。すでに記憶にないが、とにかく苦労した、という印象だけが残っていた。
 そして、今回の大玉サンドである。
 シリカゲル砂のどこが大変か、私は細かいことを忘れていた。だから、たまたま家にあったからと、それだけの理由で安易にこれを採用したのだ。
 だが。
 言わずとも分かるだろう。我が家は現在のところ、だれも下痢はしていないが、「べったり」は、確実に起こったのである。
 ここでも一番問題がないのは、やはり玉音嬢。
 彼女のウンチは「しっとりコロコロ」タイプの上、これは野良のたしなみではないと思うが、何故か排泄物を埋めないので、そもそもあまり砂が付着しない。
 大治郎氏は、もとより便の柔らかい男である。それゆえ、べったりと砂が付着する。腸管が太いのか、サイズも、人間の赤子か?というくらい大きいので、かなりの付着量になる。ただ、喜んでいいのか悪いのか、彼はボス猫らしく全く埋めないので、始末する時に転がしさえしなければ、上半分は一応無事である。
 アタゴロウは、便の質としては玉音嬢と大治郎氏の間くらいなのだが、彼だけは、上手にしっかり埋める。結果、砂が全体にまんべんなく付着することになる。
 これら、付着してしまった砂をどうするか。
 やむを得ない。一粒ずつ剥がしているのである。
 同じシリカゲルでも、小粒の砂なら、少量なら水洗トイレに流してしまっても大丈夫かもしれないが、何しろ、直径一センチほどもある大玉である。これを水洗トイレに流す勇気のある人は、そうそういないのではないか。
 あるいは、ウンチごと燃えるごみに出す、という手もあるのかもしれない。だが、私の住んでいる自治体のごみ出しルールでは、「紙おむつ」の欄に「汚物は取り除いてください」と書いてあるのだ。ウンチは基本的に、燃えるごみに出してはいけないのである。(シリカゲルそのものは可燃物である。)
 ついでに言えば、前にも書いたが、大玉サンドはほとんど尿を「素通り」させてしまうので、システムトイレの場合、すのこの下のペットシーツがすぐにびしょびしょになってしまう。我が家は現状、三匹で一つのトイレを使っているから、とても一日もたない。シーツ交換も一日二回になってしまった。
 特定の商品をブログの中で批判するのは、あまりよろしくないとは思う。だが、こんなに使い勝手が悪いのに、メーカーさんは気が付いていないのだろうか。不思議で仕方がない。唯一の良い点は、砂が飛び散りにくいということだが、代わりに、粒が球形なので、とんでもないところまで転がってしまう。仔猫がいたら、喜んで玩具にするだろう。
 まあ、使い勝手の良し悪しは、ユーザー側のライフスタイルに因るところも大きいのだから、これが使い易いという人も、きっとどこかにいるのだろう。だが、少なくとも、私には使い勝手が悪すぎる。早くアタゴロウの抜糸が終わり、砂をもとの崩れる木砂に戻したいものである。
 
 

  
  
 その、アタゴロウの抜糸であるが。
 今日は退院後二回目の通院日であった。抜糸自体は、今週の金曜日の予定であったのだが、
「その前に、週明けくらいに、一度見せに来て下さい。」
という、院長先生のご指示により、今日は診察を受けに通院したのである。
 祭日ゆえであろう。動物病院はいつになく混んでいた。
 アタゴロウくんには、少々気の毒なことであった。
 そもそも、出発の時点で、かなり時間を食っていたのである。
 まず、アタゴロウ自身が、退院以来、何でも私にされるがままになっていたものが、昨日の夜あたりから、私が水でも飲ませようかと考えると、危険を察知して逃げるようになっていた。動物病院は彼にとって最大の危険である。それゆえ私は、彼の隙を見て、早めに捕まえてキャリーに押し込んでおいた。
 その後、出かけるまでの間に、やれ自転車の空気が甘いだの、診察券を忘れただのと、何だかんだ仕度に手間取ってしまった。それゆえ、出発したときにはすでに、彼はおそらく、キャリーの中に飽きていたのである。
 さらに、着いてから、待合室で結構な時間を過ごすことになったわけだ。一時間は経っていなかったと思うが、三十分以上は待ったと思う。
 退屈と不安と怒りで不穏となったアタゴロウは、キャリーの中で暴れ始めた。私は時々、天面の窓部分から手だけを入れ、彼の顔を撫でてやったりしていたのだが、断続的ながら、今回の彼の暴れっぷりは凄かった。
 何度目かに手を入れた時、異変に気が付いた。
 エリザベスカラーの位置が変なのである。
 私の使っているリュックキャリーは、窓の部分が細かいメッシュで、中から外は見えるが外から中は見えない。それゆえ、手で触ってみてはじめて分かったのだが。
 アタゴロウは、エリカラを肩に被っていた。
 そう、つまり。
 何と彼は、エリカラを裏返しにしてしまっていたのである。
(いったい、どうやったんだ…。)
 写真を撮りたいという欲求がふと頭をかすめたが、何しろ待合室である。うっかりキャリーの蓋を開けたら、興奮している彼が飛び出してしまわないとも限らない。
 仕方なく手探りで、裏返ったエリカラを元に戻そうとしてみたが、結局、全部は戻しきれなかった。下手に無理矢理ひっくり返そうとすると、喉を圧迫してしまうかもしれない。
(仕方ない。診察の時に、直してもらおう。)
 尻ハゲ男、恐るべし。
 
 

(魅惑のぼっちゃん刈り)
 
 
 そして、診察室。
 まず、エリカラを元にもどしてから(例によって、院長先生はすこぶる冷静である)、お尻の傷を見てもらう。今回は、院長先生一人であった。私がアタゴロウの上半身を押さえ、先生がお尻をためつすがめつする。
「おしっこは出てますか?」
「出てます。おしっこもウンチも、普通にしてます。強いて言えば、ちょっとだけご飯が少なめかなと。カラーで食べにくいせいかもしれませんが。」
 それでも、出るモノは立派だけどね。
「おしっこの色は?」
「綺麗になりました。あの後すぐ、血尿は止まったみたいです。血が出ている様子もないですし。」
「尿漏れはないですか?気が付いたら床が濡れてたとか?」
「ないです。」
と、断言したが、床の濡れをいちいち気にするほど注意深い生活は送っていない。台所や洗面所の床が濡れていても、自分が水を撥ねさせたのだと勝手に納得してしまうこと確実である。
「うん。傷口は大丈夫ですね。順調です。」
 ひとしきり傷を検分してから、院長先生がおっしゃった。
 私は、確認がてら、疑問に思っていたことを尋ねてみる。
「その黒い所はカサブタですか?」
「そうです。どうしても少しは出血しますからね。」
 じゃあやはり、剥がそうとしなくて正解だったんだ。傷口の周りに点々と付いていた黒い塊と、肛門周りの付着物は、院長先生のおっしゃったとおり、濡れタオル(実際は柔らかい紙のナプキン)でふやかして、拭きとってやったのだが。
 院長先生は、傷の隣にある、十円玉大のカサブタのようなものを指さして、
「むしろ、こっちが気になりますね。」
「何ですか、それは?」
 私もかねてから気にはなっていたのだが、これも内出血の痕なのかなと思い、これまで敢えて質問していなかったものである。
「ああ、これは、皮膚炎をおこしちゃっているんですけど、この周辺のカビが気になりますね、培養検査してもいいですか?」
「え!? カビ?」
 
 
 またカビかい!!
 
 
 五年前の、あの地獄の光景がフラッシュバックする。
 前回の玉音のときと違い、パニックにはならないものの、私にとってカビの恐怖は、もうすっかりトラウマと化しているのだ。
 だが、幸いにも今、アタゴロウはエリカラを付けている。前回、かかりつけの動物病院で玉音のカビ疑惑が発覚した際、助手さんは「カラーをつけておいて、何日かお薬を塗ってやったら、すぐ治った。」と言っていたではないか。アタゴロウは玉音ではない。確実に、お薬を塗ってやれる猫なのである。
 
 

  
  
「あ、もちろん、お願いします。――アタちゃん、あんた、またカビだってよ。」
 後半はもちろん、アタゴロウに話しかけた言葉。それを先生は聞きとがめて
「前にもやったことがありますか?」
「ええ。仔猫のときに。そのときは、普通の真菌の薬が効かなくて、アカルスの薬が効いたって言ってました。」
 一応、情報提供してみたのだが、院長先生はアカルス問題には関心がなかったらしい。ま、それはそうだよね。菌は毎回違うのだから。
「では、ここのカサブタの部分を採ります。」
 ピンセットで、白っぽいカサカサの部分を少しだけ剥がし取り、培養液の中に落とす。
「お薬をつけておきましょう。」
 正確には、薬ではなく、薬用シャンプーのようなものだったらしい。患部に塗布して少々時間をおき、
「じゃあ、すすぎます。」
 と、濡らした脱脂綿で何度か拭い、最後に乾いた紙タオルで水気を拭きとって終了した。
「培養検査の結果が出るまでに一週間くらいかかります。来週には分かるでしょう。」
「その間、何かしてやることがありますか?」
「いや。他の子にうつっていないかだけ、注意しておいてください。」
 うつってないかって言ったって、何しろ玉音ちゃんは、始終、どこかしらハゲてる子だからなあ。こういうのは、気にし始めたらきりがない。腹をくくって、検査結果を待とう。
 しかし。
 正直に言おう。私はその時、「抜糸が終わってから、また検査結果を聞きに来るのは面倒くさいな。」と思っていたのだ。
 ところが、院長先生は、私が思ってもいなかったことを口にした。
「じゃあ、次は抜糸ですね。お薬が終わったころに来て下さい。」
 あれ?
 抜糸は金曜日って、決まっていたんじゃないの?
「抜糸、金曜日ですよね。」
「ええ。金曜日でいいですよ。」
 話が噛み合わない。
「金曜日には、検査結果出てますか?」
「ぎりぎり出ているかもしれません。暑ければ早く結果がでますから。寒くなってきてしまうと、もう少しかかるかも。」
「それじゃあ、」私はふと思いついて言ってみた。「抜糸を土曜日にしてもいいですか?」
「あ、いいですよ。土曜日なら、結果も出ているでしょう。」
「じゃあ、そうしてください。」
 と、いうわけで。
 抜糸は一日延びて、土曜日になった。これで、お休みを取らないで済む。通院も一度で済む(多分)。
 しめしめ。
 八方丸く治まった、と、ほっとしつつ、動物病院を後にした。
 
 
 ま。
 アタゴロウくんには、ちょっと気の毒だけどね。
 エリカラの期間が、一日延びるわけだから。
 
 
 と、そこで気が付いた。
 いやまて。エリカラだけじゃない。
 抜糸が一日延びたってことは…
 
 
 大玉サンドの期間も、一日延びたってことじゃないか!!
 
 
 入院中、「よくもこんな目に合わせてくれたな!」と、私にシャーシャー言っていたアタゴロウ。
 エリカラが裏返しになるほど、怒りに燃えてキャリーの中で暴れていたアタゴロウ。
 彼は私に対する恨みを、忘れてなどいなかったのだ。
 幼少期の記憶から、彼は私の弱点を見抜き、捨て身の技に転じたのである。
 
 
 卑劣だぞ、カビ男!
 しかし。
 
 
 ――やるな、おぬし。
 

 
 

(カビ男の呪い)
 
 
 
 
 

今日も今日とて…

 
 
 
 朝から動物病院へ。
 ただし、今日の病院は、このところ日参していた猫専門病院ではない。そして、話題の男は、愛宕朗ではない。
 大治郎おじさんである。
 ただし。
 大治郎氏は、私が霧雨の中、自転車を走らせている時分、リビングの座布団の上でぬくぬくと食後の惰眠を貪っていた。私と共に病院に行ったのは、彼の「尿」であった。
 
 
 話は、九月二十五日月曜日に遡る。
 その前の木曜日にアタゴロウの手術が決まり、報告のために、かかりつけの先生のところに寄った。
 そのときの話題は、アタゴロウの手術と、玉音ちゃんの「なんちゃってしこり」。そして、ダメちゃんの健康診断。
 前回のダメちゃんの健康診断は、昨年の十二月である。その一年後と考えたら、今回も同じく十二月なのだが、
「もうちょっと早くしてもいいですかね?」
「別にいいですけど、どうしたの?」
「実は…」
 気になることが、あるのである。
 ダメちゃんはこのごろ、少しスリムになった。
 それはおそらく、フードの好き嫌いが激しくなり、自分が好みでないごはんに対して執着がなくなったことが主な原因だと思っていた。歳をとると痩せてくるっていうのは、こういうことなのかなと。
 が。
 他に気になることが生じてきて、にわかに心配になってきた。
 水の飲み方が、何と言うか、しつこくなってきたのである。
 一日中、のべつまくなしに飲みたがるということではない。彼が水を飲むのは、主に夜である。それは変わらないのだが、一回に飲む水の量が増えてきたように思えるのだ。
 一度飲み始めるといつまでもべちゃべちゃやっている。さんざん飲んで、ああやっと終わったなと思うと、そのままUターンし、再び水場に行って飲み始めることもしばしばである。
 また、私がお風呂から上がると、早速風呂場に行って、
(おかしいなあ。例のモノがないんだけど…。)
とでも言いたげに、床の上を探しまわっているフリをしたりする。つまり、早く水を汲んで出せという要求である。
 水をたくさん飲むこと自体は良いことだと思うのだが、何しろ私には、ミミの慢性腎不全の最初の兆候を見逃したというトラウマがある。猫の水飲みには、少しばかり神経過敏なのだ。
「なので、早く検査してほしいんですよ。ミミのことがあるものだから、心配で。」
「それなら、血液検査より尿検査をした方がいいですね。先におしっこ採って持って来て。はい。」
 怪しげな棒のような物体を二本、渡された。
「何ですか、これ?」
「これでおしっこ採って。」
 パッケージには「ウロキャッチャー」という、これまた怪しげな名称が書いてある。
「どうやるんですか?」
「猫がおしっこ始めたら…」
 先生は指で、お尻の下に差し込むしぐさをしてみせた。
「はあ、なるほど。やってみます。」
 そういえば、姉が亡くなったななちゃんの尿検査で、お尻の下に棒みたいなものを突っ込んで採ったって、言ってたな。
 ミミのときは、先生が「どれどれ」ってお腹を押しておしっこさせていたような気がするけど。今時は違うのか。
 ま、確かに。
 連れてきた時、おしっこが出るとは限らないしな。
 微妙に自信がない気がしたが、とりあえずチャレンジしてみようと思い、二本を押しいただいて持ち帰った。
 二本ということは、失敗することも見越しているわけだわね。
「きれいなペットシーツにしてくれたら、それでもいいけど。」
 うーん。そっちの方が、もっとなさそうだ。
 
 
 で。
 その怪しげな物体がこれ。
 
 


 
裏返すと、
 
 

 
 
 調べてみると、ウロというのは泌尿器科のことらしい。
 どうしても「ウロボロス」を思い出すが、それは関係ないようだ。
 
 
 と、いうわけで、ウロキャッチャーをトイレの上の棚にすぐ出せるように準備して、チャンスを待っていたのだが。
 やがて、いくつか疑問が生じてきた。
 まず、これは、砂に座っている猫の、前から差し込むべきなのか、後ろから差し込むべきなのか。
 私は勝手に後ろからだと思っていたが、砂の上にお尻をつけて座っている猫の後ろから、しっぽの妨害をかわして差し込むというのは、なかなかに至難の業ではないか。かといって、前からだと、こちらが良からぬことを企んでいることが猫にモロバレである。
 だいいち、猫がこっちを向いて用を足すか、あっちを向いて用を足すかは、向こう様次第である。
 うーん。
 本当にできるのかな、私。
 それと、もう一つ。
 首尾よくおしっこを採れたとして、それはいつまでに、動物病院に持ち込めばいいのか。
 数日は保つものなのだろうか。
 私は勤め人だから、いつでもすぐに動物病院に駆け込むというわけにはいかない。だいいち、家にいるのは夜から朝にかけて、動物病院の診察時間外である。尿を採っても数日は持ち込めない可能性が高いのだ。
 ううむ。どうしよう。
 と、いうところで、妙案が生じた。
 来る二十九日は、アタゴロウの手術の日である。朝、アタゴロウを入院させ、夕方に面会に行くわけだが、さすがに手術中に何かあると怖いので、その日は一日家にいる予定である。
 そうか。この日に採ればいいんだ。
 アタゴロウを入院させ、家に帰ってきたら、終日、ダメを見張っていればいい。トイレに行ったらすかさずウロキャッチャーを差し込み、採れた尿は、夕方の面会の時に一緒に持って行く。と言っても、アタゴロウの病院で検査してもらうというわけではなく、面会が終わったら、その足でかかりつけの先生のところに寄るという寸法だ。
 丸一日あれば、ダメも二〜三回はトイレに行くのではないか。ワンチャンスでなない。ウロキャッチャーも二本ある。何とかなるだろう。
 と、内心期待するところ大であったのだが。
 もう、オチは分かるだろう。その日のダメちゃんは、アタゴロウの大事な日であるにも関わらず、昼間はノンストップの爆睡であった。トイレはおろか、起きてさえこなかったのである。
 
 

  
  
「先生、その採ったおしっこって、どのくらいもつんですか?その日のうちじゃなくても大丈夫ですか?」
「うーん、数時間ですね。」
 十月三日。アタゴロウの入院五日目。
 かかりつけの先生のところに報告に寄ったついでに、ダメの尿検査の件も尋ねてみた。
「先日、アタゴロウの手術で家に居たから、その日に採れないかと思ったんですけど、昼間は起きて来ないんですよ。困りました。」
「まあ、夜採って、翌日朝、持って来てもらうとかですね。そのくらいなら大丈夫です。」
「じゃあ、チャンスは休前日の夜ってことですね。ヨシ、じゃあ、今度の週末に頑張ってみます!!」
 先生はちょっと意外そうな顔をしていた。先生ご自身、そんなに早く成功すると思っていないのだろう。
「実は、今、チャンスなんですよ。アタゴロウのために、トイレの砂を替えるもんで。」
 ペットシーツでもいい、と言った先生の言葉が、頭に残っていた。
 今後、抜糸までの間、我が家のトイレ砂はシリカゲルの「大玉サンド」になる。大玉サンド自体は、私は好きではないのだが、一つだけ利点がある。それは、おしっこがほとんど吸収されず、すのこの下のペットシーツに落ちることだ。
 もし、シーツを替えた後、他の子がするまえにダメちゃんがおしっこをしてくれたら、それをそのまま持参すればいいことになる。
「あー、なるほど。」
 先生は、あまり乗り気でない様子だった。できればウロキャッチャーで採ってほしいという気持ちだったのだろうが、同時に、「その方法はきっと成功しない」と思っている様子がうかがえた。 
 もちろん、それは私の推測であって、その時、先生が何をお考えだったかは、ご本人に訊いてみないと分からないことなのだが。
 でもね。
 あんまり本気にしていなかったことだけは、確かだと思うのよ。
 今日、私が動物病院に飛びこんだら、びっくりしてたもの。
「あれ、今日は何ですか?」
 だって。
 
 
「先生、採れました!!」
 勝利の松明を掲げるごとく、誇らしげにウロキャッチャーを差し出す私。
「ああ、おしっこ。」
 先に気が付いたのは、助手さんの方だった。
「採れたの、昨日の七時二十分頃ですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫でしょう。どれ。」
 早速、ウロキャッチャーのスポンジ部分を絞り、スポイトで尿を採取する。見た目よりたくさん採れていた。それを試験紙に垂らし、色の変化を見る。
 とある部分が、綺麗な緑色に染まった。
「だいぶ濃いですね。」
 おしっこそのものが、ということ。
「タンパクが出てます。」 
 その緑色が、タンパクだった。だが私には、今一つ状況が掴めない。
 先生が、壁に貼ってある図を指し示して、例によって詳しく説明してくれた。
「今の状態は、この糸球体の働きが十分でないということ。つまり、タンパクの再吸収ができてないんです。だからおしっこに出ちゃう。」
「はあ。」
「これでおしっこが薄々だったら、腎臓が機能していないってことだから心配だけど、それはないから、まだそれほど進行はしていないでしょう。」
 じゃあ、おしっこが濃いというのは、必ずしも悪い指摘ではなかったのか。
「フードのせいってこともありますか?」
「うーん、あまりないですね。フードの影響だったら、血液の方に出ます。」
 なるほど。
 先生は、図の進行段階の部分を指し示し、
「今はこの『予防期』くらい。ここで食い止めるようにしないと。腎臓はね、治らないんですよ。」
 それは知ってる。
「フードはお年寄り用のを食べてる?」
「いいえ。今はお年寄り用じゃないです。プレミアムフードにしたので。」
「そう。プレミアムでも、お年寄り用にしてください。タンパク質を低く抑えてあるやつ。」
 先生にも、私が脱ロイカナを狙っていることが、だんだん分かってきたらしい。
「『腎臓サポート』は、食べたことがありますか?」
 助手さんが口をはさむ。
「あります。サンプルでもらったのを、おやつ的に食べさせましたけど。――腎臓サポートって、健康な子には、あまり良くないんですよね?」
「まあ、常食にしなければ大丈夫ですけど。でも、まあ、今のところはそこまで行かなくてもいいでしょう。」
「お薬とかは?」
「まだ必要ないです。」
 と、いうわけで。
 兆候はあったものの、まだ治療を要する段階ではなかった。
 つまり、結果的に言えば、要するにダメちゃんは今回、先生から「お年寄り」のお墨付きをもらったわけだ。
 
 

  
 
 ところで。
 ここまで読んで下さった皆さんが、おそらく一番気になっていること。
 どうやって、ダメちゃんのおしっこを採ったか。知りたいでしょう?
 実は、「大玉サンド」が役に立ったのである。
 昨夜、何か家の用事をしていたときに、ダメちゃんがトイレに入ったことに気付いた。あ、と思って駆けつけ、トイレの中を覗き込むと。
 ダメちゃんは、トイレの中で、少しだけお尻を浮かせておしっこをしていたのである。
 彼ははっきり言って、大玉サンドがキライである。
 人間に置き換えてみれば、砂ではなく砂利の上に座るようなものだから、おそらく座り心地が悪いのに違いない。また、普段使っている木の砂より熱伝導性が高いから、座るとひんやりするのだろう。
 とにかく、彼はこちらを向いて、実に真剣な顔つきでふんばりつつ、お尻を浮かせておしっこをしていた。
 と、いうわけで。
 後は簡単である。こうなったら前も後ろも関係ない。後足の間にウロキャッチャーを差し込み、「ジャー」という音が聞こえなくなる位置でしばしキープして、たっぷりと沁み込ませた。人間だってそうだが、猫だって、催している最中に何かうろんなことをされているなと思っても、出始めたものは途中でやめることができなかったものと思われる。
 我が家では何かと評判の悪い大玉サンドだが、こうして、意外なところで役に立ったのであった。
 
 
 

 
 
 
 
 

退院確定


  
  
 そして、一夜が明け――。
 アタゴロウの運命が決まる日がやって来た。
 すっかり安心し切って、押入れで爆睡していた(と、思われる)アタゴロウを引っ張り出し、彼が何が何だか分からないできょとんとしているうちに、キャリーバッグに詰め込み、自転車を走らせて病院へ。
 待合室に入ると、受付のお姉さんに、開口一番、
「おしっこ出ました?」
と、尋ねられた。
 面会の時も、名前を言わなくても分かってもらえていたので、顔を覚えられているなとは思っていたが、ここまで知られているとは思っていなかったので、少々驚いた。
 まあ、大きな手術だし、入院していたのだから、医療以外のスタッフの間でも情報共有されるよね。
 と、冷静に考えて、そこでやめておけばいいのに、ついつい、
(やっぱり、アタゴロウは可愛いからな〜。)
 などとニヤついてしまうところが、完全に親バカである。
 名前を呼ばれ、診察室に入ると、今日は院長先生の他に、女性の獣医さんと看護士さんも出てきた。女性二人がアタゴロウを押さえ、先生が傷口を丹念に検分する。
「傷は問題ないですね。順調です。」
 内腿の擦りキズのようなものについても尋ねてみたが、
「ああ、それは手術の後遺症みたいなものです。内出血の痕ですよ。」
とのことであった。
 排泄も食事も問題ないため、
「じゃあ、このまま退院にしましょう。」
 よかったー。
「そうしてください。もう、おうちが嬉しくて喜んじゃってるんで、とても病院に帰れとは言えません。」
「まあ、そうでしょうね。」
 院長先生も笑っていた。いつもクールで真面目な表情を崩さない方だが、本当にほっとしたような、力の抜けた笑顔だった。先生も嬉しいんだな、と思った。
 
 
 ところで、これは余談であるが、院長先生が傷を調べているとき、女医さんが何気なく、
「やっぱり、おかあさんがいると頑張れるわね。」
と、おっしゃった。
「入院中は、ご迷惑かけちゃいましたか?」
 心配になって尋ねると、
「いえいえ、ケージの中ではちょっと暴れますけど、ケージから出すと治療中は頑張る子ですね。早く終わらないかな、って感じで。」
 これは、どう理解したら良いのだろうか。
「猫の鑑」である、おじさんの教えを守ろうとしているのか。
 いや、おそらく、単に、ケージから出されるとビビリで動けなくなるだけ、ということだろう。
 でも、せっかく「頑張る子」と言ってもらったのだから、ここはやはり、おじさんの教育の賜物ということにしておこう。
 
 

(トイレに歩み入るところ。このときもエリザベスカラーが引っ掛かる。)
  
 
 そのまま薬を処方され、思いのほか短時間で終わったので、ちょっとだけ遠回りをして、かかりつけの先生のところに寄った。
「退院してきました。」
と、昨日からのことを報告し、せっかくなのでキャリーの蓋を開けて見せると、先生は、
「置いてかない、置いてかない。見るだけだから。」
と、アタゴロウに言い聞かせながらキャリーを覗き込む。
 ほら、元気な顔してるでしょ?と、顔を見せたのだが、後から思うに、どうせなら傷口を見ておいてもらった方が良かっただろうか。
 いずれにせよ、キャリーの中のアタゴロウを見ての先生のコメントは、
「ずいぶん、あちこちぶつかりましたね。」
だった。
 エリザベスカラーが、すでにボコボコだったからである。
 ついでに、もらった薬も見せて、
「液体の薬って、初めてなんですよね。まあ、味も悪くないってことでしたから、ちゃんと飲んでくれるとは思いますが。」
と言うと、
「これは猫用の薬ですよ。同じ薬でも、犬は錠剤なんです。猫が飲みやすいように、敢えて液体に作った薬だから大丈夫。」
と、力強い励ましをいただいた。
 併せて昨夜の様子を話し、もの凄い甘えようだったことを伝えると、
「でしょう!? ほらね。」
「ホント。セオリーどおりでした。」
 その後、先生がつぶやいた言葉を、私はきっと、一生忘れない。
「ま、奴らも少し苦労してもらった方が、スリベタにはなるわね。」
 獣医師としては不適切発言かもしれないが、たいへん飼い主の心に寄り添った意見だと思う。
 
 

(魅惑のおしりハゲ) 

 
 と、いうわけで。
 アタゴロウくんの運命は、午前中にさっさと決まり、後は家の中でゴロゴロするだけとなった。
 カラーを付けているので、何かと不便そうではあるが、拍子抜けするほど普通に生活している。ただし、今日は一日、私にべったりであった。
 私の方も、今日はアタゴロウを甘やかすために休んだものと割り切って(というより、それを口実に)、ほぼ何もせずに、猫どもとベタベタしながら一日を過ごした。ちょうど寒くなってきたところなので、膝に乗ってくれると、こちらも暖かくて快適である。
 心配していた「抱っこ」であるが、お尻を下に、膝の上に座らせても、特に痛そうでもないし、傷口に重みがかかっているわけでもないようだ。なので、シリンジでの給水も再開した。
 薬も、夕食後、つつがなく飲ませた。
 夕方、アタゴロウは、たまたま洗面所にいた私の目前でおしっこをした。気持ち良いほど勢いのよい「ジャー」という音を立てて排尿していたが、ハラハラするほどトイレの縁ギリギリに出していたところを見ると、まだ狙いが少しずれているようだ。察するに、ペニスがない分、彼がこれまで感じていたよりも後ろに出るのではないか。
 なお、直後にシステムトイレのトレーを引き出し、尿の色を確認したが、着色はなかった。昨日の尿は茶色っぽかったが、きれいになった。血尿がほぼ止まったのではないかと思う。
 
 
 抜糸は、来週の金曜日。
 その前に、「週明けの月曜日か火曜日に見せに来てください。」と言われている。同じ週に二日も休みを取るのは気が引けるなと思ったが、良く考えたら、月曜日は体育の日でお休みである。丁度良かった。
 あとは、今後の通院の際に、危険を察知したアタゴロウと猫追物になる懸念だけが残っている。
 何しろ、大きなカラーを付けているくせに、ワンジャンプで洗濯機に飛び乗るほどの元気があるのだから。さすがに、洗濯槽には入ろうとしないけど。
 入っちゃうと、多分、カラーが引っ掛かって、飛び出して来られないだろうからね。 
 
 

(お食事の図。良く見ると玉音ちゃんもいます。)
 
 
 
 
 

とりあえず退院


  
 
 昨日は、病院が休診日のため面会できず。
 その間にかなり回復したようで、本日、予定どおり、いったん帰宅することになった。
 
 
「今日は良いニュースが多いです。」
と、院長先生。
 まず、熱はほぼ平熱に下がった。
 食欲はある。(八十パーセントだそうだ。)
 血尿はかなり改善した。また幽かに茶色っぽいが、ほとんど黄色に近いという。
 出血も、まだ出るには出るが、排泄などで「きばった」ときだけである。
 傷はほとんど治っている。
 ただし、
「おしっこは、自分ではまだしていないんですよ。膀胱を押してやれば出ますし、詰まりは全くないのですが。」
と、いうことだった。
 ウンチは、一応出たらしい。
 
 
 今夜、家に帰って、一晩様子を見る。
 おしっこが出るか。
 ウンチが出るか。
 ごはんが食べられるか。
 なので、敢えて今日は薬は出さない。
 シリンジでの給水は、尋ねてみると、それはやってくださいと言われたのだが、
「抱っこして飲ませるので、傷が心配なのですが。」
と、私が不安を伝えると、じゃあ、今日はやらなくても良いです、ということになった。直前に点滴をしてあるので大丈夫ということらしい。
「何か他に、気を付けることはありますか?」 
「とにかく、舐めさせないでください。カラーは絶対外さないでくださいね。」
 そのカラーであるが、さすがに二重のカラーのうちの一枚が取れて、黄色い方一枚になった。大きい方である。
 
 
 そして、帰宅。
 
 
 タクシーの中でも、か細い声で鳴いていたアタゴロウであるが、マンションの集合玄関を入った辺りから、家に着いたことが気配で分かったらしい。
 部屋の玄関ドアを開けて入り、
「ダメちゃん、ただいま。」
 声をかけると、二重ドア代わりの竹カーテンの向こうで、ダメが鳴いた。
 するとアタゴロウ、ひときわ大きな声で一声、鳴き返したものである。
「おじさ〜ん!!」 
 と、いったところだろうか。
 リビングに入り、キャリーを開けてやると、案の定、押入れに向かってダッシュしたが、意外なことに、押入れには入らなかった。
 カラーがあるので狭い所に入りにくいのだろうと、押入れの掛け布団を出し、空いた隙間にクッションを置いてやったのだが、見向きもしない。
 ひたすら、ただひたすら、家の中を小走りに近いほどのスピードで歩きまわっているのである。
 しばらく見守っていたが、きりがないので、部屋着に着替え、まずは猫トイレの始末を始めた。
 その猫トイレであるが、実は、昨日から砂を全て入れ替えてある。我が家で日頃使っている、崩れるタイプの木の砂が、今回はあまりよろしくないというアドバイスをいただいていたからだ。
 排尿の際、砂の上に座ると、砂が傷口についてしまう。その際に、払い落せるものにしなさいということだ。
 院長先生のお勧めは紙砂であったが、なにぶん、ペットショップが開いている時間に帰宅できないので、砂を探しに行く暇がない。困ったなと思っていたら、家にシリカゲルの砂があった。それもシステムトイレ用の「大玉サンド」というやつ。肉球にはさまらない大きな粒で、重さもあるので、傷口につかないことは確実である。そこで、院長先生に相談の上、それを採用することとし、アタゴロウが帰宅する前に他の二匹に使っておいてもらおうと、昨夜から入れ替えておいたのである。
 シリカゲルといっても、基本的に、砂は尿を吸わず、ペットシーツに吸わせるタイプなので、普段の木砂のときより、ペットシーツがびしょびしょになる。そのせいか、トレイの中で尿漏れしており、処理に少し手間取った。
 もっと厚手のペットシーツがなかっただろうか、と、別室に探しに行っていたら、砂を掻く音が聞こえてきた。
 慌てて戻ってみると、何と、アタゴロウがその砂の上に座り、おしっこの真っ最中ではないか!
 自力でおしっこが出ない、と、院長先生を散々心配させておいて、家に帰ったら三十分と経たないうちに、したのだ。
 しかも、その後、続けて立派なウンチもした。
 砂が違うから排泄してくれないかもしれないという懸念は、院長先生にも伝えてあったのだが、杞憂であった。
 
 
 排泄を済ますと、アタゴロウはようやく落ち着き、歩きまわるのをやめた。
 で。
 次は、ご飯をくれと要求してきたものである。
 c/dのウェットフードを出してやると、ガツガツと食べた。s/dのドライも少し食べた。ドライが少なかったのは、単純にウェットを多めに出したためであろうと思われる。
 また、病院では、ここ三日ほどドライフードしか食べていなかったので、ウェットが食べたかったということなのかもしれない。退院直前にドライをいくらか食べていたということも考えられる。
 いずれにしても、食欲にも問題はないようだった。
 
 

  
  
 食事が済むと、こんどは構ってくれと甘えてきた。
 台所にいる私の近くまで来て、短く「ニャ」と鳴く。
 これは、明らかに玉音ちゃんのパクりだ。
 
 

 
 
 その後、私は自分の夕食を済ませ、ブログを書き始めたところで、睡魔に襲われて撃沈した。
 一度目が覚め、お風呂を沸かしがてらリビングに戻ると、アタゴロウがリビングのビーズクッションの上でヘソ天になっていた。こちらを見て誘ってくるので、撫でてやると、スリスリゴネゴネと、これまでにない甘えっぷりであった。
 一昨日までは、私を見てシャー言っていたくせに。
 そのゴネゴネに散々付き合った後、ふと見ると、隣の座布団の上に座ったおじさんがこちらを凝視していた。無言の圧力を感じて、こちらにもひとしきり付き合っているうちに、すっかり目が覚めたので、こうしてブログの続きを書いている次第である。
 ちなみに、続きを書こうと再びパソコンに向かったところで、また砂を掻く音がした。見に行くと、何と、アタゴロウが二回目の排便をしていた。
 それを片付け終わると、付き合いの良いことに、一部始終を見守っていたおじさんも、本日二回目のスメール爆撃を行ったものである。
 
 
 なお、傷の方であるが、排泄の際に砂に少し血が付いたが、ポタポタ垂れるほどのものでなない。
 ヘソ天になっているとき、傷口もしっかり見せてもらったが、糸で縫ってあることがわかるだけで、綺麗な状態であった。ただ、傷そのものではなく、近くに一箇所、擦れて赤くなっているところがあった。エリザベスカラーを超えて舌が届いてしまっているのかと、ドキッとしたが、一生懸命舐めようとしている様子を見ても、それは有り得ないように思う。むしろ、何とか股間を舐めようと頑張っているせいで、カラーが内腿の高い部分に当たってしまっているのではないかと思われた。いずれにしても、傷からは少し離れた部分である。これは明日、先生に伝えて指示を仰ごう。
 
 
 ダメと玉音は、アタゴロウが歩きまわっている間は、少々戸惑ったようすではあったが、変に警戒したり、威嚇したりすることは全くない。優しいものである。
 アタゴロウ自身は、玉音が入院した際、二度とも退院時に「シャー」を言ったのだが。
 
 
 

 
 
 
 
 

入院五日目


 
 
 今日もまだウーシャー怒っていた。
 
 
 熱は九度四分。昨日とほとんど変化はない。
 食事は「百パーセント」だそうだ。何でも、昼間、目を離したすきに、食器の中のカリカリの山の、真ん中部分がへこんでいたのだという。どうやら、人間の見ていない隙を狙ってこっそり食べているらしい。
 ウンチも出たという。
 が。
「おしっこをしないんですよ。ですが、膀胱を押してやるとジャーッと出るので、詰まっているわけでは決して、ない。膀胱が回復していないのか、あるいは、環境のせいなのか。」
 トイレには申し訳程度に砂が入れてあったが、それでも駄目らしい。
「それと、血尿が出るんですよ。」
 血尿?
 それって、傷が治っていないということではないのかな?
「膀胱炎でしょうね。ただ、膀胱炎はストレスでもなりますから、入院ストレスのせいなのか、そこが何とも言えない。」
 入院ストレスか。なるほど、多分、それだろうな。(単なる飼い主的勘だけど。)
 で、傷は?
「傷は順調に治っていますよ。ただ、おしっこを出したり、ウンチが出たりすると、ちょっとだけ出血しますね。」
 ううむ。
 血尿に、傷口からの出血。
 なかなか厳しい状況なのだろうか。
 しかし、院長先生の口調からは、「この子には入院そのものが厳しい」というニュアンスがはっきりと感じとれるのだ。
 院長先生は、私の方を探るように見ながら、
「ひとつの方法として、一度家に帰って様子を見るとか。」
 ああ、やっぱり。
 でも、かなり不安だ。いや、帰って来てくれるのは嬉しいのだが。
 ただ、いろいろ質問してみると、だからといって、何か特別に家庭で行うケアがあるわけでもないらしい。傷口を舐めさせないこと、他の猫に舐められないようにすること、気を付けるのはそれくらいだという。
 と、いうわけで。
 木曜日の夜、いったん退院することになった。
「木曜日の夜に連れて帰ってもらって、一晩様子を見て、金曜日の朝にまた連れてきてもらうということで、いかがですか?」
「様子を見るって、おしっこが出るか、とかですか?」
「そうですね。」
「出血しちゃったら?」
「少しなら特にすることはありません。傷はだいたい治ってますから。」
「大量に出血しちゃったときは?」
「夜間救急を利用してもらうことになりますね。」
 ちなみに、その夜間救急であるが、玉音を保護したときは、我が家から歩いて二分くらいのところにあったものが、既に、歩けない距離のところに移転してしまっている。滅多に利用しないとはいえ、残念なことだ。
「お迎えは、このくらいの時間でもいいんですか?」
「いいですよ。」
 それなら、金曜日に休暇を申請すればいい。ちょうどその後は三連休だ。そのまま退院になったら、しばらく家で見張っていられる。
 なお、明日は休診日のため、面会もできないそうだ。
 明日と明後日の二日間で、熱が下がり、出血も止まってくれると良いのだが。
 
 
 面会を終えて時計を見ると、思ったより早く、まだ六時五十一分だった。そこで思い付いて、その足で、かかりつけの先生のところに報告に行った。
 診察時間をちょっとだけ過ぎてしまったが、幸いまだ入口は開いていた。
「ちょっとご報告に来ました。」  
「なに?退院したの?」
「いやいや、さすがにまだです。」
 木曜日にいったん家に戻ることになった旨を説明し、血尿と出血のことを話すと、
「あー、出血ね。ポタポタって出るんでしょ。それは仕方ないかな。当分続きますよ。」
 え、そうなんだ。
「その辺は、傷の治りが遅いですから。大きな血管はないけど、細かい血管がたくさんあるから、ちょっとしたことで出血しちゃうんですよ。」
 そういえば、先生は最初から、傷の治りは遅いと警告してくれていたのだった。
「じゃあ、この程度は、想定の範囲内ってこと?」
想定の範囲内というか…なる子はなりますね。」 
 何だ。
 驚くようなことではなかったんだ。
 血尿についても、入院ストレスかもしれないという話をすると、さもありなん、と、大きく頷いていらっしゃった。
 ついでに、
「私を見てシャーって言います。怒ってます。」
「捨てられたと思ったんでしょ。」
 即答である。
「何をいまさら、って?」
「そう。八つ当たりですよ。その子により、捨てないで〜ってスリベタになる子もいるし、怒る子もいるし。ま、落ち着くまでは、しばらくそんな感じかもね。」
 ああ。分かるなあ。
 いかにもアタゴロウらしい。
 こいつは、普段は無邪気で天真爛漫なのだが、実はその辺り、ちょっと屈折しているところがあるのだ。対して、玉音の方が、不安だと素直に頼ってくるような可愛さがある。意外に女子力が高いのである。
 色々な意味で、納得した。
 やはり、かかりつけの先生は、何かと融通がきくし相談しやすい。ついでに、
(木曜日の夜に何かあったら、お願いしていいですか?)
と、言ってしまいそうになって、はっと気が付いた。
 木曜日は、こちらの病院が休診なのである。
 アタゴロウのやつ。
 相変わらず器用な奴だ。
 
 
 ところで。
 このようないきさつで、昨日の私の悩みは、実に消極的な解決を見た。
 仕事帰りに二軒の病院をハシゴして、さすがに疲れた私には、自宅までの最短ルートを外れてケーキを買いに行く気力など、もはや残っていなかったのである。
 ついでに言えば、次回木曜日は、自転車ではないけれど、アタゴロウを連れているから、結局タクシーで帰宅することになる。その後は、首尾よく行けば退院だ。
 三日間、毎日朝晩ケーキを食べる、などという大それた野望は、やはり、所詮絵に描いた餅に過ぎなかったのだった。
 
 
 
 
 

入院四日目


  
  
 半目になっているが、朦朧としているわけではない。怒っているのである。
「シャー」を言っているところを撮りたかったのだが、スマホのカメラはシャッタースピードが遅い。なので、シャーを言い終って口を閉じたところの写真が撮れてしまった。
 写真を二枚しか撮らず(さすがに何枚もは撮れない)、あと一枚が手ブレなのかぼけてしまったので、この写真から想像してもらうしかないのだが、今日のアタゴロウは、昨日に比べ、私を睨む目力が格段にアップしていた。
 それに。
 私が手を出すと「シャー」を言うのは同じであるが、視覚が私の手を認識してからシャーが出るまでのスピードが速い。動体視力と反射神経も、確実に回復しているのである。
 
 
「熱も引いてきています。昨日は九度八分ありましたが、九度三分まで下がりました。」
 ほっとした。
「おしっこは出ましたか?」
「自分ではしていませんが、膀胱を押してやったらジャーっと勢いよく出ましたから、詰まってはいないです。環境的な問題でしょう。」
 ケージの中には小さな猫トイレが入れてあったが、中にはペットシーツが敷いてあるだけで、砂はない。トイレだと認識できなかったのかもしれない。
「ウンチは?」
「それが、出ていないです。」
「手術後は、まだ一度も出ていないんですか?」
「そうです。」
 それは、結構な便秘なのではないか。
「まあ、最初のうちは、食べてませんでしたからね。」
 確かに。
「あとは悩みどころで、早めに帰すか、トイレに砂を入れるか――。」
 早めの退院は、正直、あまり嬉しくない。いや、アタゴロウが戻ってくるのが嫌なのではなくて、患部の清潔保持と言う最初の問題に戻ってしまうからだ。
「砂を入れると、場所が場所だけに、傷口に砂がついてしまうんですよ。それがあまりよろしくないので。」
 なるほど。確かに悩みどころである。
「どうしたら、いいんでしょうね…。」
 相槌は打ってみたが、もちろん、私に妙案が出せるわけもない。だが、砂のないトイレをトイレと理解して用を足すというのは、猫にとってはなかなか高いハードルのように思われた。自分の身に置き換えてみれば分かる。
 
 
 食欲は、あるらしい。
「今日は九十パーセントくらい食べましたよ。」
 やっぱりパーセント表示なんだ。
「でも、ウェットフードは食べないので、ドライだけにしました。」 
 アタゴロウめ。私の悪態が通じたか。
「すり潰したら食べるかも。その形状がキライみたいなんで。でも、ドライを食べているなら、無理に食べさせなくてもいいんですよね。」
 ドライを食べられるなら問題はないと思われるが、一応、伝えておいた。
 ついでに、
「これ、家から持って来たんですけど。タオルの代わりに。」
 手術直後の面会の際に、リビングのビーズクッション(小)から剥がしたバスタオルを差し入れておいたのだが、汚してしまったからと、洗濯に回ってしまっていた。洗濯したら、家の匂いが消えてしまう。というわけで、今度は、三匹がいつも代わる代わる座っている座布団から、カバーを剥がして持ってきていた。
「ああ、じゃあ、近くに置いてやってください。」
 病院の白い灯りで見ると、やはり何となく薄汚い。ちょっと恥ずかしかったかなと思いながら、畳んだ座布団カバーをアタゴロウの頭の近くに置いてやると。
 またしても、「シャー」を言われた。
「もうちょっとキレイなのを持ってこいよ。オレの立場を考えろ。」
と、いう意味だったりして。
 
 
 ところで。
 今日からは、会社帰りに病院に立ち寄ることになったわけであるが。
 私には、人知れず悩みがあった。
(どうしよう…。)
 こういうときは、頼りになる後輩に相談しよう。
 リサ子三十歳。若くしてみんなに頼られる、某有名女子大出の才媛。
 休憩室で弁当を広げながらの会話である。
「そういうわけで、今日から急いで帰って、帰りに病院に寄るんだけど、ちょと困ったことがあってねえ。」
「何ですか、困ったことって?」 
「実はねえ、」私はためらいがちに口にする。
「病院から家までの間に、ちょっと遠回りのところも含めて、途中に気になるケーキ屋が三軒あるのよ…。」
 うち二軒は、もうずいぶん前に、既に調査済み。美味しいことは分かっているが、普段は通らない道なので、なかなか立ち寄る機会がなかったものである。もう一軒は、今回見つけた新規開拓の店。
「これまでは自転車だからってスルーしてたけど、今日からは歩きでしょ。」
「なら、毎日一軒ずつ寄ればいいじゃないですか。」
 近くにいた別の二十代女子まで一緒になって、さも当然のごとく言い放つ。
 いや、しかし。
「でも、アタゴロウが病院で痛い思いをしているのに、毎日ケーキなんて、いいのかしらねえ。」
「自分にご褒美ですよ。」
「いや、ご褒美あげるようなこと、何もないから。」
「お見舞い頑張ってるじゃないですか。」
「頑張ってるなんてほどのことはないけど――あ、そうか。アタゴロウに貰ったお見舞いを食べてるんだと思えばいいんだ。」
 家族の誰かが入院すると、普段は食べられない高いメロンが食べられる。それと同じ理屈である。
「意味がわかりません。」
 いいじゃないの。アンタはどっちの味方なのさ。
「それにねえ。」私は続けて、もう一つの問題を指摘する。
「ケーキ屋さんって、一個だけ買ってもいいものかしら。」
「コンビニなら一個でもいいけど、普通は複数ですね。」
「でも、一日にケーキを二個って、ちょっと、ねえ。」
 リサ子は横にいる私に鋭い一瞥を与えた後、思慮深い目を再び前方に向けて、極めて冷静にきっぱりと言い切った。
「私なら、夜に一個食べて、翌朝、もう一個を食べますね。」

それ、何の解決にもなってないやん!!
(というより、この時点ですでに、毎日一軒ずつ寄ることが前提となっている。)
 
 
 と、いうわけで、今日のケーキ。
 
 

 
 
 
 ええ、食べましたよ、二個とも。
 だって、朝はやっぱりご飯でしょ。日本人だもの。
 
 
 でも、二個食べての感想は、やっぱり毎日はキツイかな、という感じ。
 よく考えたら、
「ケーキなら毎日でもオッケーで〜す!!」
 と、言えるような女子力は、そもそも私には備わっていなかったのだった。
 
 
 さて。明日はどうするかな。
 退院までに三軒、回りきれるだろうか。
 
 
 あ、しまった。
 ケーキで頭がいっぱいで、肝心なことを訊くの忘れた。
 水曜日が休診だけど面会はできるのか。
 三軒回るとか回らないとか、それ以前の問題だった。
 
 
 
 

 はっ。す、すいません。