入院四日目


  
  
 半目になっているが、朦朧としているわけではない。怒っているのである。
「シャー」を言っているところを撮りたかったのだが、スマホのカメラはシャッタースピードが遅い。なので、シャーを言い終って口を閉じたところの写真が撮れてしまった。
 写真を二枚しか撮らず(さすがに何枚もは撮れない)、あと一枚が手ブレなのかぼけてしまったので、この写真から想像してもらうしかないのだが、今日のアタゴロウは、昨日に比べ、私を睨む目力が格段にアップしていた。
 それに。
 私が手を出すと「シャー」を言うのは同じであるが、視覚が私の手を認識してからシャーが出るまでのスピードが速い。動体視力と反射神経も、確実に回復しているのである。
 
 
「熱も引いてきています。昨日は九度八分ありましたが、九度三分まで下がりました。」
 ほっとした。
「おしっこは出ましたか?」
「自分ではしていませんが、膀胱を押してやったらジャーっと勢いよく出ましたから、詰まってはいないです。環境的な問題でしょう。」
 ケージの中には小さな猫トイレが入れてあったが、中にはペットシーツが敷いてあるだけで、砂はない。トイレだと認識できなかったのかもしれない。
「ウンチは?」
「それが、出ていないです。」
「手術後は、まだ一度も出ていないんですか?」
「そうです。」
 それは、結構な便秘なのではないか。
「まあ、最初のうちは、食べてませんでしたからね。」
 確かに。
「あとは悩みどころで、早めに帰すか、トイレに砂を入れるか――。」
 早めの退院は、正直、あまり嬉しくない。いや、アタゴロウが戻ってくるのが嫌なのではなくて、患部の清潔保持と言う最初の問題に戻ってしまうからだ。
「砂を入れると、場所が場所だけに、傷口に砂がついてしまうんですよ。それがあまりよろしくないので。」
 なるほど。確かに悩みどころである。
「どうしたら、いいんでしょうね…。」
 相槌は打ってみたが、もちろん、私に妙案が出せるわけもない。だが、砂のないトイレをトイレと理解して用を足すというのは、猫にとってはなかなか高いハードルのように思われた。自分の身に置き換えてみれば分かる。
 
 
 食欲は、あるらしい。
「今日は九十パーセントくらい食べましたよ。」
 やっぱりパーセント表示なんだ。
「でも、ウェットフードは食べないので、ドライだけにしました。」 
 アタゴロウめ。私の悪態が通じたか。
「すり潰したら食べるかも。その形状がキライみたいなんで。でも、ドライを食べているなら、無理に食べさせなくてもいいんですよね。」
 ドライを食べられるなら問題はないと思われるが、一応、伝えておいた。
 ついでに、
「これ、家から持って来たんですけど。タオルの代わりに。」
 手術直後の面会の際に、リビングのビーズクッション(小)から剥がしたバスタオルを差し入れておいたのだが、汚してしまったからと、洗濯に回ってしまっていた。洗濯したら、家の匂いが消えてしまう。というわけで、今度は、三匹がいつも代わる代わる座っている座布団から、カバーを剥がして持ってきていた。
「ああ、じゃあ、近くに置いてやってください。」
 病院の白い灯りで見ると、やはり何となく薄汚い。ちょっと恥ずかしかったかなと思いながら、畳んだ座布団カバーをアタゴロウの頭の近くに置いてやると。
 またしても、「シャー」を言われた。
「もうちょっとキレイなのを持ってこいよ。オレの立場を考えろ。」
と、いう意味だったりして。
 
 
 ところで。
 今日からは、会社帰りに病院に立ち寄ることになったわけであるが。
 私には、人知れず悩みがあった。
(どうしよう…。)
 こういうときは、頼りになる後輩に相談しよう。
 リサ子三十歳。若くしてみんなに頼られる、某有名女子大出の才媛。
 休憩室で弁当を広げながらの会話である。
「そういうわけで、今日から急いで帰って、帰りに病院に寄るんだけど、ちょと困ったことがあってねえ。」
「何ですか、困ったことって?」 
「実はねえ、」私はためらいがちに口にする。
「病院から家までの間に、ちょっと遠回りのところも含めて、途中に気になるケーキ屋が三軒あるのよ…。」
 うち二軒は、もうずいぶん前に、既に調査済み。美味しいことは分かっているが、普段は通らない道なので、なかなか立ち寄る機会がなかったものである。もう一軒は、今回見つけた新規開拓の店。
「これまでは自転車だからってスルーしてたけど、今日からは歩きでしょ。」
「なら、毎日一軒ずつ寄ればいいじゃないですか。」
 近くにいた別の二十代女子まで一緒になって、さも当然のごとく言い放つ。
 いや、しかし。
「でも、アタゴロウが病院で痛い思いをしているのに、毎日ケーキなんて、いいのかしらねえ。」
「自分にご褒美ですよ。」
「いや、ご褒美あげるようなこと、何もないから。」
「お見舞い頑張ってるじゃないですか。」
「頑張ってるなんてほどのことはないけど――あ、そうか。アタゴロウに貰ったお見舞いを食べてるんだと思えばいいんだ。」
 家族の誰かが入院すると、普段は食べられない高いメロンが食べられる。それと同じ理屈である。
「意味がわかりません。」
 いいじゃないの。アンタはどっちの味方なのさ。
「それにねえ。」私は続けて、もう一つの問題を指摘する。
「ケーキ屋さんって、一個だけ買ってもいいものかしら。」
「コンビニなら一個でもいいけど、普通は複数ですね。」
「でも、一日にケーキを二個って、ちょっと、ねえ。」
 リサ子は横にいる私に鋭い一瞥を与えた後、思慮深い目を再び前方に向けて、極めて冷静にきっぱりと言い切った。
「私なら、夜に一個食べて、翌朝、もう一個を食べますね。」

それ、何の解決にもなってないやん!!
(というより、この時点ですでに、毎日一軒ずつ寄ることが前提となっている。)
 
 
 と、いうわけで、今日のケーキ。
 
 

 
 
 
 ええ、食べましたよ、二個とも。
 だって、朝はやっぱりご飯でしょ。日本人だもの。
 
 
 でも、二個食べての感想は、やっぱり毎日はキツイかな、という感じ。
 よく考えたら、
「ケーキなら毎日でもオッケーで〜す!!」
 と、言えるような女子力は、そもそも私には備わっていなかったのだった。
 
 
 さて。明日はどうするかな。
 退院までに三軒、回りきれるだろうか。
 
 
 あ、しまった。
 ケーキで頭がいっぱいで、肝心なことを訊くの忘れた。
 水曜日が休診だけど面会はできるのか。
 三軒回るとか回らないとか、それ以前の問題だった。
 
 
 
 

 はっ。す、すいません。