ごたごた荘のすぐまえに


 

 昨年の五月下旬である。

 慌ただしく人が行き交うフロアの片隅で、二人の女が小声で話し合っていた。

 いい歳をした大人が二人。どちらもすこぶる真剣な表情である。だが、もし、誰かがその会話を盗み聞いたら、思わず吹き出していたかもしれない。そのくらい、その会話は荒唐無稽だった。

「猫はね、生まれ変わりが早いんですよ。」

 彼女は、真顔で私に言い切った。

「それにね、猫は、次も猫に生まれてくるんです。人間になりたいとか、思わないのね。猫であることに満足しているから。」

「猫ですものね。」

「そう。それで、また猫になって、飼い主に会いに来るんです。」

 彼女は、私を元気づけようとして、ただ出鱈目を言ったのかもしれない。

 だが、私にはそうは思えなかった。そのくらい、彼女は真面目で、その口調には、断固たる確信が溢れていた。

 その彼女の確信がどこから来たのか。その情報のソースはどこにあるのか。

 私は訊かなかった。もちろん、それが科学的でないことは知っている。だが、彼女のその圧倒的な優しさゆえに、私はそれを信じた。

「そうですね。きっと、もうちょっと待てば、また玉ちゃんに会えますね。」

 

 

 

  

 当時の私が、玉音のことを「天使」と表現していたのは、旅立っていった彼女への、いわば鎮魂の意味を込めてのことである。

 彼女の生前、私が思っていたのはむしろ、

(この子は、妖精みたいな子だな。)

ということだった。

 今でもそう思っている。

 妖精みたいな子。

「玉音」という名前は、はじめに「たまね」という読み方があって、そこに漢字をあてた。

 私がまず考えたのは「珠音」であった。女の子らしい、綺麗な感じがする。

 だが、さくらに反対された。

「珠は良くない。儚い感じがする。」

 だから敢えて、「玉音放送」と被るのを承知で、「玉」の字をあてたのだ。

 さくらはこの一件を忘れているかもしれない。だが私は、玉音との暮らしの中で、何度もそれを思い出していた。

 さくらが「儚さ」を案じたのは、ただの偶然だったのだろうか。

 玉音が私の許に来たのは、決して偶然ではない。玉音は、神様が選んで私の手の中に置いてくれた子だ。

 いつのころからか、私はそう信じるようになっていた。

 諸々の理由の大半は、もう覚えていない。だが一つだけ、当時から今に至るまで、ずっと確信していたことがある。

 この子は、野生では生き残れなかった子だ。

 体も弱い。力も弱い。そして、気持ちも弱い。常に他の猫に、争う前から負けている。

 この子はもとより、自然界の中では淘汰されるべき命として、この世に生を受けたのではなかったか。

 その子が、私の手の中にいる。

 神様が私のために、この子を、その運命の中からすくい上げて、私に託してくれたのだ。

 弱さばかりではない。その被毛の透き通るような純白も、瞳のきれいなオリーブ色も、小さな顔も、少し曲がった尻尾も、つまり、彼女の容姿そのものにも、何か儚い印象ある。

 怖がりで、引っ込み思案で、甘えたいのに逃げてばかりいて。

 抱きしめたいのに、抱きしめられない。

 寄り添っていたいのに、傍に来てくれない。

 手を伸ばせば喜んで撫でさせてくれるのに、私の体が近付くと、いたちごっこのように、詰めた距離の分だけ逃げていく。

 もどかしい愛娘。

 妖精みたいな子。

 そっと触れたときにてのひらに感じる、その体温や被毛のふんわりとした柔らかさも、命の手ごたえというより、繊細なコワレモノのような感じがした。

 それでいて、そのガラス細工のようなイメージを覆す、動物らしい特徴。

「この子、何だかお尻が臭いんですけど。」

 近付くと匂うことが頻繁にあった。お腹の調子が悪いのかと、動物病院で尋ねてみたこともある。

 当時の私は、それが肛門腺の匂いだということを知らなかった。そして、それが、仔猫が母猫の注意を惹くために分泌する、愛情と信頼の証であるということも。

 

 

  

 

 私が人生で最初に好きになった作家はリンドグレーンである。「長くつ下のピッピ」の作者と言えば分かるだろうか。小学校低学年から三、四年生くらいの頃ではないかと思う。

 当時、近所には図書館がなかったので、市から「移動図書館」という図書を積んだバスが、週に一回、派遣されていた。そのバスの停車場所が家から近かったこともあって、我が家でも、母が毎週、大きな買い物袋を提げて、子供たちのために本を借りに行っていた。

 私がリンドグレーンの作品が好きだと言うと、母は移動図書館リンドグレーンの本があると、必ず借りてくれた。リクエストもしてくれていたかもしれない。

 こうして、学童期にリンドグレーン作品は相当数読破した…はずなのだが、今、内容を覚えている作品は、残念ながら二つしかない。そのうちの一つが件の「ピッピ」である。

 先日、ふと、ピッピのことを思い出し、フルネームは何だっけ?とか、靴下の色は?とか、細かいことを思い出せずにいるうちに、気になりすぎてつい、岩波少年文庫のピッピ三部作を衝動買いしてしまった。

 ピッピは九歳の女の子である。馬を持ち上げられるほどの怪力で、大金持ち(金貨がいっぱい詰まったトランクを持っている)で、「ごたごた荘」に住んでいる。同居者は猿と馬、つまり、一人暮らしだ。お母さんは天使(ピッピが小さい頃に亡くなった)で、お父さんは「南の島の王様」。これは、もともと船長だった父が、嵐の日に船から海中に転落して行方不明になったことから、ピッピがそう信じているという設定なのだが、後半、本当に南の島の王様になっていたことが判明する。

 ネットを見ると、大人になってピッピを読み返した人の感想は真っ二つで、子供の頃のワクワクを思い出して懐かしむ人と、大人目線ではピッピがワルイコ過ぎて感情移入できないという人とに分かれるようだ。

 私は幸い、前者だった。大人が読んでも「ピッピ」は面白い。むしろ、大人目線で見ると、ピッピは学問とマナーを欠いているだけで、その善悪に対するバランス感覚に富んだ態度や、他者への細やかな気遣いは、下手な成人よりよほど大人であることがわかる。彼女のほら話は基本的に相手を楽しませるための「盛り」であって、話の内容はなかなかウィットに富み、毒がない。会話での切り返しの鋭さは、頭の回転の速さとセンスを感じさせる。

 ピッピが教養とマナーを身に着けたら、素晴らしいレディになったことだろう。

 だが、そのピッピの「大人な」キャラクターを意識すればするほど、私は、子供時代に考えた以上に、これがおとぎ話であるという感を強くしていた。

 もちろん、ピッピが実在するはずのないキャラクターであることは、子供のころから分かっていた。だが、彼女には人間らしいリアリティがあり、ネットの感想文に出てくるように、こんな子が友達にいたら楽しいだろうな、という想像は、子供らしい願望として無理なく導き出されるものだ。

 一方、大人になった私が思ったのは、この子を大人にはできないな、ということだった。

 大人に「なれない」のではない。「できない」のだ。

 赤毛のアンは、成長して大人になった姿が、続く作品群に描かれている。だが、ピッピが大人になることはない。大人になったら、子供の夢である「ピッピ」という存在は消えてしまう。彼女は、ピーターパンの女の子版であると言ってもいいかもしれない。

 言い換えるなら、リンドグレーンはピッピを、特別な能力を持つ人間の女の子としてではなく、いわば、別の世界から来た存在として描いたのではないか、と、私は思ったのだ。

 ピッピは大人にならない。大人のピッピは存在しない。子供の夢である彼女は、子供時代の数年間だけ、隣に住むことを許された存在である。リンドグレーンは、ピッピと友人達(副主人公のトミーとアンニカ)が、大人にならないための「生命の丸薬」(黄色いエンドウ豆にそっくり。ピッピ曰く「長いことうちの戸棚に入っていたから、丸薬の力が抜けていないとは言い切れない」。)を飲むくだりでピッピの物語を終わらせているが、おそらく、もし頼まれても、その続きを書く気はなかったのではないか。

 子供は大人に憧れる。大人は子供にはない力(パワー)を持っているからだ。体力、腕力、知力、そして経済力や権力(もしくは、他者への影響力)。だが、ピッピは子供でありながら、それらを全て持っている。

 大人になることは、それらのパワーを手に入れることだ。そして、その代償として、さまざまな自由を失っていくことだ。

 パワーも自由も、両方を持っているピッピは、完全無欠の存在であるはずだ。だが、「命の丸薬」を飲んだ夜、彼女は友人たちの見下ろす窓を振り返ることもなく、ひとりローソクの火を見つめ続け、そして、それを吹き消す。

 それは、トミーとアンニカの子供時代の終わりの象徴であり、彼らの人生からのピッピの退場を予告するものだ。

 子供が「大人になりたくない」と叫ぶとき、それはその子の子供時代の終焉に等しい。

 子供時代を通り過ぎたトミーとアンニカの隣にピッピはいない。ピッピの退場は、いわば予定調和だ。彼女ははじめから、数年後には消えるべき存在として、彼等の隣家に現れた。つまるところ、全てがフェアリーテイルだったのだ、と言うと、身も蓋もなさすぎるだろうか。

 そう考えると、元気いっぱいで自由奔放なピッピが、不思議と儚く、哀しく見えてくる。だが、誓って彼女はかよわい存在ではないし、現実世界から消えていくことが、彼女の不幸でもない。(もし、ピッピの退場を文学として描くなら、「お父さんのいる南の島に移住する」という物語になるはずだ。)

 ピッピは美しい。そして儚い。それは彼女が子供の夢であり憧れであるからだ。だが、その夢や憧れは、決して脆く消え易いものではない。明るく力強く、活力と可能性に満ちたものだ。

 儚いから美しいのではない。美しいから儚いのだ。

 期間を限定で与えられる夢。予定調和的に消えていく喜び。

 その儚さに哀しみを見出すのは、自由を失った大人の目線である。儚さと強さ、儚さと鮮やかさ、そして至上の幸せ。自由な子供の目線で見れば、それらは併存し得るものだということを、ピッピは教えてくれているような気がする。

 

 

  

 

 同じリンドグレーンの作品に「はるかな国の兄弟」がある。

 明るく痛快なピッピの活劇と違って、こちらはリンドグレーンの死生観を現すと言われる、深く重いファンタジーだ。何しろ、主人公の兄弟の死から、物語は始まるのだから。

 私が二つだけ覚えていたリンドグレーン作品のもう一つが、この物語である。思うに、多数ある彼女の作品群の中で、これらがいわば両極端であったが故に、この二つだけが印象に残っていたのではないか。

 主人公の兄弟は死後の世界で、竜と闘うなど、ファンタジックな冒険を繰り広げるわけだが、私がはっきりと覚えていたのは、その前段にあたる部分である。

 兄弟の生前、兄のヨナタンは健康で容姿も美しく、賢く、優しく、母(父はいない)の自慢の息子である。対して、弟のカールは病気(結核?)を患い、寝たきりで余命いくばくもない。ところが、皮肉にも、兄弟の住む家が火事になり、弟を助けたヨナタンは代わりに自分が命を落とす。

 彼亡き後の母子の不幸は、想像するに余りある。

 その後、カールも病死し、死後の世界で兄と再会するわけなのだが、死後の世界で、それと気付いたときのカールの描写が、子供の私にとって鮮烈であった。

 簡単に言えば、彼は全くの健康体になっていたのだ。

 咳も出ない。走れる。泳げる。また、生前のカールは「足がまがっていた」とあるが、その曲がった脚もまっすぐになっていた。服のまま小川に転げ込み、泳ぎを楽しんだカールは、水から上がり、脚にぴったりとはりついたズボンを見てそれを悟るのである。

 ただ、その世界自体は、生前ヨナタンが弟に語り聞かせていたような理想郷ではなく、再会した兄弟もやむなく、幼い戦士として、対立する人間同士が導く危険な戦いに身を投じていくことになる。そのくだりはここには書かないが、そこにもやはり「死」はあり、その先には次の世界が待っているということを暗示して、物語は終わる。

 正直なところ、ふたりの戦いや冒険のストーリー展開については、ほとんど記憶がなかった。私の心に強く残っていたのは、「カールが死後の世界で健康になったこと」と、「死後の世界も人の世であり、そこにも死があって来世があること」の二点である。

 死ぬことによって、新しい肉体を得る。

 死後の世界は、天国でも地獄でもなく、良い人も悪い人も、愛も憎しみも嫉妬も存在する普通の世界であり、そこからまた、死んで次の世界に行く。

 これらはつまり、転生ということではないのか。

 では、私が輪廻転生を信じているのかと言われると、それはどちらとも言えない。リサイクル可能な魂というものが(概念としてでなく)実在するのか、実在するとして、その転生先が時間と空間を隔てた同じ世界の中なのか、あるいは全く別の世界(パラレルワールド)なのか、私にはそういった深遠な問題を追及する頭脳も精神力もないし、敢えて言うなら関心もない。ただ、人の性(さが)として、生まれ変わりにより愛する者と再び巡り会うという夢は、ロマンティックな可能性として、常に心の中にある。

 そのロマンティシズムにリアリティを与えたのが、この作品だったのだ。

 繰り返すが、命が転生するのか、それは私には分からない。だが、転生すると仮定したとき、新しい命と共に、病める者も健康な体を得る。そして、また次の人生を生きて、さらに転生していく。そんなイメージが、児童書の挿絵とともに脳裏に視覚的に刷り込まれ、今日まで色褪せずにいるのである。

 

 

 

 

  

 冒頭の会話に戻る。

 猫の転生は早い、と、同僚は言った。

 玉音が逝去して一年。彼女は今、どこにいるのだろう。

 彼女は私に、会いに来てくれるだろうか。

 彼女は何故、死んだのだろう。彼女の死を、生と病と死という、淡々とした命の営みの一環として受け止めていない自分がいる。

 玉音は、生後おそらく二か月足らずで私の許に来た。その時点で、FIVに感染していた。

 母子感染なのかは分からない。だがいずれにしても、それは生まれた時から時限爆弾を抱えていたようなものだと言っていい。感染から七年で発症というのは、私が全く想像していなかっただけで、別に異例の早さというわけではない。もっと遅い子や、死ぬまで発症しない子もいるというだけのことだ。

 ふと思うことがある。

 玉音は最初から、期限を切られてこの世に送り出されてきた子だったのではないかと。

 あるいは、もしかしたら。

 同じく、若くして私の許を去った子たち。即ち、ミミかムムが、中断された残りの命を生ききるために、特別に許されて戻ってきた姿。それが玉音だったのではないかと。

 そうかもしれない。そうでないかもしれない。

 だがそれは、どちらでもいいことだ。もし、玉音が他の猫の転生した姿であったとしても、新しい命と、肉体と、名前を得た時点で、玉音は玉音だ。それが短い、儚いものであったとしても、それは玉音の猫生であり、玉音の命の輝きだ。

 妖精のような玉音ちゃん。

 玉ちゃんに会いたい。もう一度、その毛皮に触れたい。許してくれるなら、もう一度抱きしめたい。

 その命の神秘ということも含めて、本当は、私は彼女のことを何も理解していないのかもしれない。だが、その生涯に寄り添った者として、一つだけ確信を持っていることがある。それは、彼女がもっと生きたかったということだ。 

 仮に、彼女の生涯の短さが、最初から定められていた“予定調和”であったとしても、玉音の命は輝いていた。彼女は温かく柔らかく、ちゃんと肛門腺の匂いもする、生きた生身の猫だった。動物病院では肉球にびっしょりと汗をかき、日常では飼い主に平気で「シャー」を言う、臆病で気まぐれな可愛いお嬢さんだった。

 彼女の美しさ。透き通るような被毛も、ガラスのように澄んだ瞳のオリーブ色も、全て、彼女の命の光に照らされて輝いていたのだ。

 それはあまりに、儚い印象を与えるものではあったけれど。

 玉ちゃんに、帰ってきてほしい。彼女が生ききれなかった残りの生涯を、もう一度、私の傍で過ごしてほしい。

 それは私の切なる願いであり、祈りである。

 だが。

 もう一つの願いがある。

 玉音が帰ってくるとき、あるいは次に生まれてくるときは、こんどは、強い体と、強い心を持って生まれてきてほしい。そして、彼女が望む猫生を、自由に、力いっぱい生ききってほしい。仮にそれが短い「残りの生涯」であったとしても。

 ピッピのように。

 その祈りは、私の玉音に対する、精一杯の愛情である。

 私の中の私が嗤う。

 それは、両立しない願いだよね。

 もし、玉音が、強気でたくましい猫になって現れたら、私にはそれが彼女だと分からないだろうから。

 いずれにしても、その子は、私の知っている玉ちゃんではない。言うまでもなく、新しい命を得た時点で、彼女は別の猫なのだから。

 猫はまた猫に生まれてくる、と、同僚は言った。

 あれから一年。

 玉音は今、どこにいるのだろう。どんな猫で、何という名前なのだろう。

 もしかしたら彼女は今、新しい飼い主の許で、毎日幸せに暴れているかもしれない。前の猫生のことなど思い出すこともなく。

 それでいいのだ。

 玉音ちゃん。

 あなたが幸せになってくれることが、何より大切なことなのだから。

 あなたが私の娘でなくなってしまうことは、私にとって、心を引き裂かれるほど辛いことではあるけれど。

 

 

 けれど、もしも。

 今の猫生で辛い思いをするようなら、どんな姿でもいいから、ここに戻っておいで。

 八年と七か月前、あなたは神様の手で、あるいは運命に導かれて、私の許に来た。だからきっと、次もまた、誰かがここへ導いてくれる。

 だから、ね。

 あなたが帰ってこないのは、幸せになった証拠だと、そう信じることにするよ。

 私の可愛い玉音ちゃん。

 

 

 

「わたしのかわいいスプンクちゃん。」ピッピは、やさしく話しました。「いつかは、みつけられるって、わたしにはわかっていたわ。でも、ずいぶんおかしいわね。わたしたち、スプンクをさがして、町じゅうをまわったけど、そのあいだじゅう、スプンクは、ごたごた荘のすぐまえにいたんだわ!」

(『ピッピ南の島へ』アストリッド・リンドグレーン作 大塚勇三訳 より)  

 

  

 

 

 

 

 

註)「スプンク」はその朝、ピッピがみつけた「あたらしいことば」。ピッピ、トミー、アンニカは、「スプンク」を探して町じゅうを巡り歩く。

 

 

 

クイージハットル卿のラフプレー

 

 不意に顔に強い衝撃を受けて、クリストファーは思わずよろめいた。何が起こったのか、とっさに理解できなかった。痛みは後からついてきた。左の頬がひりひりと焼けるように熱く、それが次第に、じんじんとした鈍い痛みに変わっていった。

 横面を殴られたのだ、と気付いて思わず手をやると、指に血が付いた。男の長い爪が、殴打のはずみで柔らかい皮膚に傷をつけたのだろう。傷自体はごく浅いものだ。だが、何故?自分が何をしたというのか?突然の暴力の理由が理解できず、彼は面食らった。

 頬に手を当てたまま、途方に暮れて辺りを見回したクリストファーの周囲で、大きな笑いが巻き起こった。酒場にいる者たち全員がグラスを握ったまま、涙をこぼさんばかりに爆笑している。テーブルを叩いている者もいた。確かに、この光景は滑稽だろう。クリストファーの大きな体や豊かな赤毛が、いかにも育ちの良い印象を与えるだけに、不意打ちを食らってきょろきょろと辺りを見回す様は、ひどく間抜けに見えるに違いなかった。

 つまり、からかわれたのだ。

 我に返ったクリストファーが目の前の男を見返すと、男は素知らぬ顔で髭の手入れをしていた。男は――決して大柄ではない。長身のクリストファーよりむしろ一回り小さく、年齢なりに腹回りの贅肉が垂れ下がってさえいる。だが、その黒い上着の光沢や、鼻筋の青白さに反し黒々と濃いもみあげや顎髭は、何か得体の知れない、不気味な貫録を醸し出していた。

 男はクリストファーの視線に気付いて目を上げた。吊り上がった緑色の目は、笑っているようで笑っていなかった。だがあくまで嘲笑うような口調で、男は言った。

「驚いたか?坊主。だが、この界隈で、おまんまにありつこうと思ったら、少しは荒っぽい遊びも覚えないとな。」

 

 

 栗助が我が家に来て、もう八か月になる。

 トライアル中に「にゃんくる」さんから聞いた話で、新入り猫と先住が、半年を過ぎた頃から急に仲良くなったというケースもあったというが、我が家の場合も、四か月を過ぎた頃から雪解けが始まり、半年くらいで、お互い「仲間」として認識したようだ。

 アタゴロウが栗助を威嚇することも、栗助がアタゴロウを避けて逃げ回るようなこともなくなった。

 互いに、お尻の匂いを嗅ぎ合うようになったのも、この辺りからである。どちらかが相手をぺろりと舐める場面も、同じ頃から時折見受けられるようになってきた。

 こんなこともあった。

 私が栗助をリビングから締め出してしまったとき、アタゴロウは、私が栗助を入れてやるまで、ずっと扉の前に座って外の様子を窺っていた。栗助が入ってきた後は、特別構うこともなかったのだが、同じことがアタゴロウと玉音の間にもあったことを思い出して、私は一人で感慨に耽ったのだった。(「和解・夫帰る」)

 それがおそらく、二月中のできごとである。

 その後は順調にというのか、なし崩し的にと言うのか、一緒に暮らしていることが次第に当たり前となったらしい。今では毎日ドタバタと、追いかけっこやら、プロレスやら、互いのご飯の狙い合い(譲り合い?)やら、つまるところ、普通の同居猫関係を保っている。

 

 

(ハゲもだいたい治りました。)

 

 

 そうは言っても、ここに至るまでにはささやかではあるが紆余曲折はあった。

「そういえば、アタちゃんはどう?」

「オラついてる。」

 さくらとこんな会話をしたのは、栗助が来てやはり半年ほど経った頃のことだろうか。

 断っておくが、ミスタッチではない。私は本当に「オラついてる」と言ったのだ。「イラついてる」ではない。

 栗助は、温和な奴だ。誰かが言った「繊細な」という表現には、個人的には多少の疑問を抱いているが、空気を読むし、自己主張しすぎず遠慮がちだし、普段は呑気だが人見知りで内気な面もある。(さくらは「正しい猫山家の猫」と評した。)

 何しろ、もとカフェ猫という接客のプロであるにも関わらず、友人達が我が家に遊びに来た際には、一目散に押し入れに逃げ込み、ちゃっかり「いないフリ」を決め込んでいたものである。仕方なく、アタ先輩がひとりでお客様のお相手を相務め候ということになったわけであるが、一目だけでもお披露目をと、私が栗助を引っ張り出した後、押し入れの襖を閉めて退路を絶ってみたときの彼の困惑ぶりは、お前今までカフェで何してたんだと思わず突っ込みたくなる情けなさであった。

 ただし、「人も猫も好き」という説明は、間違ってはいなかったらしい。

 茶トラらしく、天真爛漫にフレンドリーな面もあるのである。

 私にも懐いたが、アタゴロウにも懐いた。

 敢えて言うなら、アタゴロウが栗助を完全に受け入れる前に、懐いたのである。多分、そうだったのだと思う。

 多分、というのは。

 アタゴロウの栗助に対する態度が、拒否なのか受容なのか分からない期間が長かったのである。

 栗助の方は、最初から、アタゴロウに対し攻撃的な態度は示さなかった。ただ、アタゴロウが怒るので、避けて回っていただけである。

 逆に、アタゴロウはいつまでも、栗助に突っかかっていた。本気の喧嘩は仕掛けないものの、追いかけまわしたり、前足ではたこうとしたり、「シャー」を言って威嚇してみたり。ある時点から、本気の攻撃ではないと分かったため静観してはいたが、やっぱりこの若僧が気に入らないのかな、と、二匹が「仲良し」になる希望を捨てかけたことは、既述のとおりである。

 だが。

 あるとき、ふと、思い出した。

 すっかり忘れていたが、アタゴロウはもとから、乱暴な遊び方をする猫なのである。

 少年時代は、ダメちゃんの背に飛びついてはロデオの如く振り落とされていたし、大きくなってからも、おじさんにしつこく取っ組み合いを仕掛けては、嫌がられて唸られていた。

 玉音ちゃんとも、彼女が仔猫の頃は良かったのだが、彼女が大人しいお嬢さんに成長すると、こちらも追っかけまわしては本気逃げされていた。ちなみに、追いかけて何をするかと言えば、やはり背中から襲い掛かるのである。ただしこれは、プロレス目的なのかエロ目的なのか判然とせず、いずれにしても、大人しい玉ちゃんに対し、アタゴロウのエネルギーが過剰なゆえのミスマッチであったという推測しか得られていない。

 だが、となると。

 もしかして、アタゴロウが栗助を追いかけまわしたり、前足で攻撃まがいのことを仕掛けたりするのは。

 これって、遊びたいのかな。

 そういう目で見始めると、そういうふうに見えてくる。

 最初はもちろん、縄張り本能に由来する敵意であり、威嚇であったはずだ。それがいつから、男子同士の「荒っぽい遊び」に変わったのか。その継ぎ目は全く分からない。おそらく、アタゴロウ本猫にも分からないだろう。

 

 

 

 

 空っぽの皿をしげしげと眺め回していた女は、振り返ると、鋭い眼でクリストファーをねめつけた。

「この皿の上に、干し肉があったはずだ。あんた、知らないとは言わないだろうね?」

 クリストファーは女の険悪な物言いに嫌な気分がしたが、なるべくそれを顔に出さないように、努めて愛想よく答えた。

「僕が食べました。――お腹が空いていたので。」

 あまりにもあけすけな返答に、女はあっけにとられたように、ほんの二、三秒、クリストファーを見つめていた。それから、言葉にならない金切り声を上げたかと思うと、テーブルを叩きながら大声で男を呼んだ。

「アタンリー!アタンリー!」

 寝室のドアが開き、顎髭の男が顔を出した。

「何の用だ。」

 女は足を踏み鳴らしながら喚いた。

「この若殿さまが、あんたの夜食を食べちまったよ。お腹が空いていらしたんだとさ!」

 男は眉根を寄せたまま、大股で台所に歩み入った。クリストファーは訳がわからぬまま、とりあえず愛想のよい笑みを浮かべて男に頷いて見せた。

 アタンリーと呼ばれた男はクリストファーの眼前に立つと、この赤毛の若者の頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと値踏みするように目を走らせた。

「腹が減っていた、とな? そりゃご立派な理由だ。だが、これが誰のメシだか、考えてはみなかったのか。」

 クリストファーは困惑した。確かに、彼は何も考えていなかった。だがそれは、皿の上の肉が、明らかに食べ残しであったからだ。誰もいない台所に放置された食べ残しを、空腹で倒れそうになっている若者が頂戴したところで、何がいけないというのだろう。男の威圧的な物言いにもクリストファーは気分を害したが、ここでこの男を怒らせるのは得策ではないと気付き、ただ黙って視線をそらした。

 

 

 栗助は温和な奴である。

 アタゴロウは依然として、先輩風を吹かせて威張っているが、栗助は彼に突然殴りかかられても、避けるだけで反撃しない。怒りもしない。

 アタゴロウの方は気まぐれで、栗助に優しく鼻を寄せていくので、舐めてやるのかなと思うと、突然、気が変わって、パンチを繰り出したりする。

 だが、では栗助が気弱な奴なのかというと、そうでもない。

 何しろ、こいつは我が家で初の、「他猫のご飯を奪取する猫」なのである。

 我が家は基本的に常に多頭飼いなのであるが、歴代の猫同士の間では、「他猫の食べているご飯の皿には顔を突っ込まない」という暗黙のルールがあった。このため、皿の主不在時の盗み食いはあっても、ひとつの皿を巡って奪い合いになることは、未だかつてなかったのである。

 よく考えれば凄いことだ。これも、ダメちゃんの教育の賜物だったのだろうか。

 ところが、栗助は平気でアタゴロウの皿を狙う。攻撃したり威嚇したりして奪うわけではないが、アタゴロウが食べている最中でも、隙を見て同じ皿に鼻先を突っ込もうとするので、アタゴロウの方が嫌がってその場を離れてしまうのだ。

 ただし、断言するが、栗助自身には、何の悪気もない。

 繰り返すが、栗助は温和な奴である。遠慮深い面もある。その一方で、時にこうした強気な行動に出るというのは、一見、矛盾しているように見えるかもしれない。

 だが、そうではない。私に言わせれば、それは単なる「陽気な無神経」である。

 つまるところ。

 栗助もやはり、茶トラだったのだ。

 慎重すぎるほど慎重で、大人しくて、空気を読む。遠慮深くて、人見知りで、甘え下手。

 当初、栗助が見せた性格は、いわゆる茶トラのイメージの対極を行くものだった。

 茶トラと言えば、陽気でお調子者で、おっちょこちょいのお馬鹿キャラというのが定番だと思うのだが、当初、栗助にはそうした傾向が全く見られなかった。

 茶トラでもこういう猫もいるんだな、と、少々見込み違いの感がしていたのだが。

 杞憂であった。

 やはり茶トラは茶トラである。

 栗助の場合、彼のチャトライズムは「他者の悪感情の存在に気付かない」というものである。というより、何の根拠もなく相手の好意を信じて疑わない点である。

 多分、栗助がアタゴロウのご飯を奪うのはいわば結果論である。彼はアタゴロウの食べているご飯を自分も食べたいだけで、アタゴロウを追い払う気持ちなど毛頭ない。いわんや、アタゴロウに対し、羨望だの嫉妬だのといった悪意は皆無であると断言していい。

 なぜって。

 どうやら、私の見たところ、栗助はアタゴロウが大好きだからだ。

 アタゴロウは私が大好きなので、何かにつけてべったり甘えにくるのだが、私とアタゴロウがいちゃいちゃしていると、栗助がどこからともなく現れ、自分も参加しようと近付いてくる。

 もちろん、逆もまた有り、私が栗助を撫でていると、もれなくアタゴロウが割って入ってくる。そして、栗助を押しのけて自分が私に撫でられようとする。

 ところが。

 栗助は、私がアタゴロウを撫でていると、私ではなくアタゴロウの方に擦り寄っていくのである。

 それはむしろ、私が栗助に嫌われているってことじゃないか、って?

 いやいや。

 そこまで嫌われてはいませんよ。現に今も、私が北側の部屋に籠ってこの原稿を書いている間、栗助はずっと隣のソファで寝ていたのだから。

 栗助は、アタゴロウが好き。

 だがそれは、なかなかに驚くべきことである。

 だって、アタゴロウは、理由もなく栗助に殴りかかるパワハラ先輩なんですよ。

 しかも、最初に書いたように、温和で平和主義の栗助に対し、アタ先輩は、「荒っぽい遊び」を好む男なのだ。

 当初はあれだけ威嚇されてたのに。殴られたり、追いかけまわされたり、それはそれは酷い目にあわされたのに。

 怒らない・反撃しない栗助は、ただただ、気弱でおっとりした子なのだと思っていた。

 でも、ひょっとしたら。

 栗助の側は最初から、怒られているのではなく、「荒っぽい遊び」を仕掛けられているとしか認識していなかったのかもしれない。

 いやまさか、そこまで能天気ではないだろうけれど。いくら茶トラだからって。

 

 

「お前、何て名だ?」

 中年男は相変わらず横を向いたまま、ぶっきらぼうに尋ねた。

「クリストファーです。――クリストファー・ドーロング。」

 礼儀に則ってフル・ネームを名乗るべきだったろうか。クリストファーは瞬時、躊躇した。だがここで自分の称号を明らかにすることは、却って相手の逆鱗に触れるような気がした。称号なんてものは、必要もなく自分からひけらかすもんじゃない。相手が相手なら、そんなものは自然に分かる。分からない相手には、最初から伝える必要がない。それが父である故クイージハットル卿の教えだった。

「クリストファーか。」

 男は機械的に繰り返した後、怒ったような口調で、こう付け加えた。

「お前のしっぽは、こう、特徴的な形をしてるな。え!?」

 クリストファーは思わず返事に詰まった。状況が理解できなかった。なぜここで、しっぽの話が出てくるのだ。この男は一体、自分に何を言おうとしているのだろうか。

 そのとき、男が横目でちらりとクリストファーを見た。目が合ったその一瞬に、ようやく彼は理解した。それが男の不器用な誉め言葉であるということを。

「アタンリー・ブラックホワイトだ。」

 男は不愛想に、自らの名を述べた。クリストファーはその名前を、頭の中で何度も繰り返した。アタンリーさん。アタンリーさん。不意に、これまで頭上に垂れこめていた暗い雲が消えて、ぱっと明るい光が差したような気がした。このひとは悪いひとじゃない。ただ照れ屋で、不器用で、本当は凄く優しいひとなんだ。そうに違いない。

「アタンリーさん。どうかよろしく!」

 嬉しさの余り、クリストファーは彼に駆け寄ると、上着をはだけたその胸元に、赤毛の頭をこすりつけようとした。だが、突然予想外の突進を食らったアタンリーはよろけ、カッとなってクリストファーの頭を殴りつけた。

「あはは。ごめんなさい、アタンリーさん。でも、あなたがいいひとで、本当に良かった!」

 クリストファーは全く悪びれずに、またしても、アタンリーの顎の下に頭突きを試みた。アタンリーは呆気にとられた。何をしているんだ、この若僧は。俺が怒ってるのが分からないのか。どこのお坊ちゃんだか知らないが、ずいぶん雑な礼儀作法じゃないか。

 ふと見ると、クリストファーはいつの間にか、ちゃっかりと、アタンリーの皿に残っていた肉の切れ端を自分の口に入れていた。それを見て、アタンリーは完全に怒る気を無くした。こいつは、俺が名乗ったことで、何もかも許されたと思ったんだ。これは果たして、天衣無縫な無邪気さと言うべきなのか。それとも、無神経な礼儀知らずと言うべきなのか。

 いずれにしても、アタンリーがはっきりと悟ったことがあった。それは、この赤毛の若者に対しては、怒っても怒鳴っても一切無駄だということだった。

 

 

クリストファー・胴ロング。(てか、お前太ったな。)

 

 

 

 無邪気と無神経は、紙一重である。

 そして。

 ついでに言うなら、無神経と乱暴も、紙一重なところがある。

 栗助はおそらく、自分の体の大きさを考えていない。その体重と体高をもって、アタゴロウの胸元に頭をすり寄せに行くから、毎度、アタゴロウを斜め下から突き飛ばすようなことになるのだ。

 アタゴロウは迷惑そうにしているけれど、別に怒っている様子もないので、多分、それが好意の表現であることは分かっているのだろう。

 ただし、怒ってはいなくても、殴ることはある。そしてそれが、追っかけ合いの取っ組み合いに発展することもある。

 

 

 要するに。

 これもまた、「荒っぽい遊び」の一環なんだろうな。

 ただし、これについては、栗助の側から仕掛けていることになるのだけれど。

 

 

誰にでも分かります。

 

 

 ところで、You Tubeに投稿せずに動画をブログに貼りつける方法を見つけたので、試してみたのだが、どうだろうか。

(背後の生活音がうるさいので、予めミュートにしておくことをお勧めします。)

 

 

 

 

 ちなみに、背後の騒音は、洗濯機である(多分)。うるさくて申し訳ない。

 なお、この動画を家族や友人達に見せたところ、おおむね「ほっこり系」として受け止められたようであった。だが、この記事の内容を踏まえてこれを見ると、別の視点が生じると思う。

 実は、栗助は、アタゴロウが優しく接しているときでも、決して警戒を緩めていない。いつ先輩の気が変わって、殴られないとも限らないからだ。

 このことを念頭に、栗助の表情に注目して動画を見返してほしい。きっと、別の意味で笑える。

 

 

 

 

 

既成事実の勝利

 

 

 本日付で、茶トラくんを正式に「うちの子」にした。

 

 

 この一か月の間に目覚ましい進展があったのかと言えば、別にそういうわけではない。

 要するに、既成事実を積み上げて、何となく「もういいでしょう」になっただけのことである。

 決断のきっかけは、あるような、ないような――。

 

 

 実は、去る一月二日に、数年ぶりで「お山」に行ってきた。

 本当に久しぶりにyuuさんと、ボランティアのAさんにお会いしたのだが、このとき、

「どのくらいトライアルしてるの?」

「四か月ですね。」

という会話があったのだが。

 このときのお二人の反応は

「じゃあ…ねえ。(笑)」

だった。

 要するに、もう、正式譲渡になったものとみなした状態で、それ以降の会話は進んだのである。

 ああ、やっぱりそうなんだな、と、思った。

 そう。

 四か月家に居たら、もはやトライアルではないのだ。(一般的には。)

 外目にそう見えるというだけではない。当事者である我が家のメンバー、即ち二匹と私も、もう考えたり悩んだりする気力を失ってしまったらしい。

 気が付いたら、それぞれ、誰がどこに居ようが、誰も気にしなくなっていた。

 茶トラくんがご飯を食べている十センチ先を、アタゴロウが通過する。

 もしくは、茶トラくんが食べているご飯を横取りしようと、二十センチ先で待機する。

 茶トラくんの方は、さすがにアタゴロウ本体からは少し距離を取るが、彼の寝ている椅子の横を通って、彼の食べ残したご飯を回収に行く。

 ちなみに、茶トラくんのデフォルトの居場所は、昼間は押し入れの中、夜はケージの上である。だが、私がアタゴロウにせがまれて何か食べさせようとすると、いつ何時でも、魔法のように姿を現す。

 それを見てもアタゴロウは無反応だ。自分が食べ終わると、あるいは、出されたご飯が気に入らないと、まるで茶トラくんに譲ってやるとでも言わんばかりに、悠然と背中を見せて立ち去っていく。

 つまり、好き嫌いは別として、互いに相手の存在を認めているのだ。

 いつのまにか、茶トラくんのいる生活が「そういうもの」になってしまっていた。これが、私の、あるいは茶トラくんの「粘り勝ち」でなくて何であろう。

 

 

 

 

 

 成猫の雄同士である。縄張り争いは本能の命ずるところだ。

 と、いう事実を、私が受け入れられるようになったのも大きいのかもしれない。

 ダメちゃんとアタゴロウがそうであったように、二匹が仲良くなり、くっつきあって眠ったり、毛繕いし合ったりする。当初、私はそれを狙っていたわけであるが、やはりそれは甘かった。

 再び「お山」の話になるが、私が、「二匹が仲良くならない」話をすると、yuuさんは、

「成猫同士だからね。雌同士だともっと大変だけど。」

と、さらりと受け流した。

 そりゃそうだよな。

 何故か分からないけれど、その瞬間、私は妙に納得したのである。

 無理やり分析すれば、そのとき私は、私以外の誰もが、二匹が仲良くなるだろうなんて期待していなかったんだ、と悟ったのかもしれない。

 互いに相手を気にしないで生活できるだけの距離感が掴めれば、それで合格。仲良くなったら、僥倖。

 いや、私だって、仲良くならずに共存するという可能性を考えなかったわけではないのだが、毎度、トライアル継続か終了かを判断するにあたり、ついつい、もうちょっといけるか?と、ゴールを遠目に設定してきてしまったように思う。

 だが。

 もういいや。

 まだ喧嘩っぽいことはしてるけど、別に流血沙汰にもならないし。

 アタゴロウのハゲも、治ってはいないけど悪くなってもいないし。

 ま、そのうち何とかなるだろう。

 遊んでるわけではないけれど、とりあえずアタゴロウの運動量は増えているわけだし。

 ここまできたら、もう、むしろ茶トラくんを返すことを考える方が面倒くさい。

 

 

最近、メシに注文をつける。

 

 

 もちろん、きちんと状況を踏まえての判断もあるのですよ。

 まず、その「喧嘩っぽいこと」。

 アタゴロウが茶トラくんに突進し、茶トラくんが高所に逃げるという行動は、毎日ある。ときには、アタゴロウが手を出して茶トラくんを叩こうとしたり、実際に叩いて、そこからボクシングになったりもする。

 だが、それだけ。

 一瞬で終わる。

 時々、「シャー」の声が聞こえる時もあるが、ふと気付いたら――これは確信がないのだが――、 声を立てているのは、むしろ応戦する茶トラくんの側が多くなっているような気がするのだ。

 いきなり攻撃されたら、そりゃあ「シャー」くらい、言うよね。

 もしかしたら、ひょっとしたら、仕掛けるアタゴロウの側は、そんなに本気ではないのかもしれない。

 

 

 

 そして。

 これは年が明けてからのことであるが。

 アタゴロウが茶トラくんの匂いを嗅いでいる場面を、何度か目撃したのである。

 最初は一月三日。背中の匂いを嗅いだところを見た。

 その後、お尻の匂いを嗅いでいるところを、二、三度目撃している。

 対する茶トラくんの方も、アタゴロウのお尻の匂いを嗅いだところを、一度だけ見た。

 これは、歩み寄りではないだろうか。

 しかも、である。

 今日が二度目。二度とも偶然かもしれないが、二匹の鼻と鼻が、触れ合う寸前まで接近したところを、確かに見たのである。

 ただしこれは、二度とも食事中の話で、互いが互いのご飯を狙ってせめぎ合っているさなかのことである。単に、相手が食べているものを気にして匂いを嗅いだだけかもしれない。

 とはいえ、お互い、相手に鼻を近づけられても手が出なかった。先の理屈で言えば、十分合格である。

 

 

ハゲの部分も、一応毛が生えてきている。

 

 

 と、いうわけで。

 何の感動も感慨もなく、きわめてなし崩し的に、茶トラくんは正式に猫山家の一員となり、「栗助」と改名した。

 なぜ栗助かと言えば、元の名前が「クリス」だからである。

 お山で、「クリス」が「栗助」になると話したとき、

「ネーミングセンスが…」

と、その場にいた私以外の三人(yuuさん・Aさん・猫カフェ荒らしのSさん)は、柔らかな笑いに包まれたのだが、それはきっと、誉めてくれたものだと信じる。

 我が家の猫はみな、純日本風の名前を名乗るのだ。

 と、言い切ろうとしたところで、例外がいたことに気付き、先日、遅ればせながら諡(おくりな)したので、その公表がてら歴代の猫の名前を並べておく。

 

三冬(ミミ)

大治郎(ダメ)

睦(むつむ/ムム)

愛宕朗(アタゴロウ)

玉音

栗助

 

 並べてみると、なかなか味のあるラインナップだと思うのだが、どうだろうか。

 

 

 なお、栗助の出身カフェは「にゃんくる川崎店」様である。

 と、書けば、分かる方には分かると思う。

 批判を覚悟で公表する。アタゴロウはFIVに感染していた。玉音から貰ったのだ。だから、最初からキャリアの猫を探して、同店に赴いた。

 アタゴロウには他に、尿結石(ストルバイト)と喘息の持病がある。だからこそ、本当に栗助を我が家に迎えて良いのか、最後まで悩んだ。

 今回、これで結論は出たわけだが、それが正しい決断であるという保証はない。彼のためを思うなら、もとより単頭飼いを貫くべきだったという意見もあるだろうし、私自身、そうかもしれないという迷いも、まだ心のどこかに残っている。

 でも…もう既成事実なのだ。

 我が家には、二匹の猫がいる。

 愛宕朗と。

 栗助と。

 

 

 

 

 ぶっちゃけ、私にはもう、こいつが「栗助」にしか見えないのよね。

 

 

 

 

新しい年が明けました

 喪中なので、おめでとうはありませんが、

 今年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 写真は、実家のりり。

 現在、十七歳。今年の五月で十八歳になる。

 すっかり痩せて動きも緩慢だが、良く食べ、良く出し、おかげで毛皮はピカピカ。若い時と変わらず、ミンクの手触りである。(ミンク持ってないけど。)

 それにしても。

 すでに十七歳とは。時の経つのは早いものである。

 ♪オトナでもない~

  コドモでもない~ (←古すぎ)

 と、私が歌っていたら、姉が一言。

「婆さんだからね。」

 …的確過ぎて、返す言葉がない。

 

 

 一方のアタゴロウは十歳。

 

 

 

 

 

 ハゲが心配で、グルーミングのタイミングを観察しているのだが、結果、私の中に、彼に対する疑いが芽生えてきた。

 どうやら、彼がせわしく「舐め舐め」を始めるのは、

1.私がなかなかご飯を出さない時

2.出されたご飯が気に入らない時

で、あるように思えるのだ。

 茶トラくんの存在に苛立っているのではなかったのか。

 まさか、お前さん。

 その「舐め舐め」って、私に対する脅迫行為じゃないだろうな。

 

 

 茶トラくんは、今朝、朝ご飯を用意している私の足元に、歩いて催促に来た。

 そう言っても、猫を飼っている方々は「ふうん」としか思わないだろう。それは飼い猫として、あまりに当り前な行動だから。

 だが、思い出してほしい。

 ここに来た当初、彼は、ご飯が欲しくなると、ケージの中から鳴いて私を呼びつけていた男なのだ。

 鳴いて呼びつけるのと、足元まで催促に来るのと、どちらがより図々しい懐いた猫の行動であるかは難しいところだが、ワタシ的には、ちょっと感慨を覚える出来事であった。

 

 

 

 

 

 

 実は、この写真を撮る直前、椅子の横の廊下を、アタゴロウが歩いて通過した。

 その距離、およそ十センチ。

 二匹とも、何も言わなかった。

 

 

 その後、距離を保ちつつ、互いに視線を合わせたり外したりしていた男たちである。

 

 

 

 

 

 

今年もお世話になりました。

 

 今年の一月一日の写真である。

 ずいぶん昔のような感じがする。

 

 

 五月に玉音ちゃんがこの世を去り。

 

 

 

 九月に茶トラくんが登場。

 

 

 

 最初は引きこもり男子だったけど。

 

 

 

 だんだん外に出るようになって、

 

 

 

 今日に至る。

 

 

 顔が変わったなと思う。

 最初はやはり、緊張していたもんね。

 この頃は、私を仲間だと認識したらしく、いっちょまえに甘えてくる。

 二回に一回くらいは、前から手を近づけても、逃げずに撫でさせるし、目やにも取らせてくれるようになった。

 今日の昼間は、押し入れで寝ている彼と、初めておでこをくっつけ合った。

 玉音ちゃんには、押し入れを開けるたびに「シャー」を言われていたのを思い出す。

 どっちがいいかって? そりゃ、どっちもでしょう。

 

 

 そして、今日のアタゴロウ

 

 

 

 分かりにくいが、私の膝の上である。

 ハゲの方は、治りはしていないが、進行もしていない(と思う。)

 ここ二日間、ずっと家にいて彼を見ていたが、猫らしく寝るか、私に甘えるかしてばかりで、別にイライラしているようにも見えなかったし、グルーミングが止まらないような様子もなかった。

 ハゲの部分は、完全なハゲではなく、ちゃんと全体に毛が生えている。黒いオーバーコートが少ないだけ。

 もう少し様子を見ても大丈夫かな…。

 

 

 そして、夜。

 

 

 

 

 ヒーターの前に一匹しかいないのが寂しい。

 来年の冬は、ここに二匹いますように。

 

 私事であるが、実は、クリスマスに「テニス肘」というのをやった関係で(テニスはやりません。できません。)、腕に負担がかかることは差し控えていた。

 これを言い訳に大掃除もサボったわけだが、ブログの方も、例によって更新が滞りがちになると思われる。今更、誰も気にしないと思うけど。

 それでも、細々と続けていくつもりはありますので、来年もよろしくお願いします。

 

 

 私は喪中ですが、どうぞ皆様、よいお正月をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

参加することに意義がある


 早いもので、また一か月経ってしまった。

 トライアル期間の切れ目である。

 だが、今度は、あまり悩まなかった。すでにトライアル延長をお願いした。

 何しろ、アタゴロウがハゲハゲなのである。今のところ改善の傾向はない。

 そうなると、こちらは常にアタゴロウのグルーミングに神経を尖らせることになってしまい、正直、現状として彼のグルーミングが過剰なのかどうか、良く分からなくなってしまっている。他にはとくに、彼がナーバスになっているような様子は見受けられないのであるが。 

 私が気にしているのは、ハゲハゲといい膀胱炎といい、アタゴロウのストレス障害の兆候が、最近になって表面化したということだ。

 彼のこのメッセージが、三か月トライアルを続けてみての「結論」であるのか、あるいは、新局面に向かう移行期間の「ゆらぎ」であるのか、見極めがつかない。

 なので、その見極めのためということで、トライアル延長をお願いした。

 そう言って、またズルズルと結論を引き延ばすことが、果たして良いことなのか。それも判断がつかないことではあるのだけれど。

 

 

 

 こんなことがあった。

 まずは先々週、十二月八日である。

 猫たちの夕食前、ふと見ると、椅子の陰に隠れたアタゴロウがお尻を振っている。

 と、思ったら、アタゴロウの奴、いきなり、ケージの一階にいた茶トラくんに向かってダッシュしたものである。
 驚いた茶トラくんがケージの二階に逃げると、アタゴロウはそのまま横にそれて、ケージの横にあるガリガリウォールでバリバリ爪を研いだ。それで気が済んだらしく、その後は、何食わぬ顔で戻ってきた。

 茶トラくんは、ぽかんとしていた。

 この、同じ動きを、間を少しあけて二回、やった。

 これは威嚇行動だったのか、遊びだったのか。

 やっていることは遊びっぽい。だが、おそらく、そこまで平和な話ではない。

 その後、同じ日か翌日に、アタゴロウがまた茶トラくんを襲っているところを見たが、その時は、手を出して茶トラくんをはたこうとしていた。明らかに喧嘩を吹っかけていた。茶トラくんが逃げると、それ以上、深追いすることはなかったのだが。 

 

 

 そして、これは二~三日前の話。

 またもや、アタゴロウがケージの中の茶トラくんに突進しているところを見た。

 茶トラくんはケージの二階にいた。このため、二匹は至近距離で、真正面から向き合ったわけであるが――。

 次の瞬間、アタゴロウが向きを変えた。

 目が合っただけで、お互い何もしていない。攻撃はおろか、声すら発していない。

 その何もする前に、アタゴロウはくるりと踵を返し、まるで茶トラくんから逃げるかのように、元来た道を走り去ったのである。

 これは通常、猫の「追いかけっこ」のときに見られる行動ではないだろうか。

 往復で、追う側と追われる側が入れ替わるという。

 茶トラくんは、やはり、ぽかんとしていた。

 これも、夕食前の出来事であった。 

 

 

 

 夕食前というタイミングから考えるに、つまるところ、アタゴロウは茶トラくんを狩ろうとしていたのではないか。

 もちろん、猫が猫を獲物にするというのは、自然界でも、多分、あまりないことであろうし、だいいち、茶トラくんは、アタゴロウの獲物には大きすぎる。あくまで、本能の命じた狩猟「行動」ということである。

 まあ、アドレナリンが出て調子づいたところで、普段から気に食わないヤツに喧嘩を売りに行ったのだ、とも考えられるわけであるが。

 いずれにしても、おそらく、アタゴロウ的には、茶トラくんを遊びに誘うなどという、微笑ましいことをしたつもりは、毛頭なかったものと推察する。

 だが。

 考えてみれば、そもそも、猫の「遊び」自体、狩猟本能を満たすための代替行動と言われているのである。「狩る」と「遊ぶ」は、最初から紙一重なのだ。

 だとしたら。

 ひょっとしたら。

「狩る」が「遊ぶ」に変わる。そんな日が、いつか来るかもしれない。

 何度も言うが、私は「成猫×成猫」の組み合わせで猫のマッチングをしたことがない。それゆえ、最初は必ずウーシャーからスタートする成猫同士が、どのような経過を辿って互いを受け入れるようになるのか、想像がつかずにいたのだが。

 もしかしたら、こんな道筋もあるのかもしれない。

 ふと、そんな期待を抱いてしまったのである。

 

 

 いやいや。希望を持つのはまだ早い。

 茶トラくんは、完全にアタゴロウを避けている。別に怖がっているわけではないようだが、彼にとってアタゴロウは「キレるおじさん」であって、茶トラくん自身のココロの平安を保つためには、決して関わり合いになってはならない相手なのだ。

 であるから。

 傍目には「遊びに誘っている」ようにすら見えたアタゴロウの行動に対して、彼が「ぽかんとして」いたのは、理の当然だ。仮にアタゴロウが本当に遊びに誘っていたのだとしても、彼がそれに乗るわけがない。

 自分の身に置き換えてみれば分かる。毎日、自分を怒鳴りつけている上司から、突然、飲みに誘われても、普通は行きたくないと思うに決まっている。どうせ、飲みに行った先で、また説教されるだけなのだから…と。

 これはなかなかの難問である。

 救いは、茶トラくんの方は、特にアタゴロウを嫌っている様子がないこと、くらいだろうか。

 

 

 

 

 古代ギリシャでは、ポリス(都市国家)間の戦争が絶えなかった。あるとき神託が下り、戦争に代えて屈強の男たちが力と技を競うようになったのが、オリンピックの始まりである。四年に一度の大会の時には、あらゆる都市国家の男たちは、戦争を止めて競技場に集まった――。

 と、いうのが、私が子供の頃に読んだ「オリンピックの始まり」の話である。(うろ覚えである。なお、実際には、もう少し複雑な話であるらしい。)

 命を懸けた「戦い」が、力のせめぎ合う「試合」に代わり、やがてそれが、「スポーツ」という娯楽となり、コミュニケーションツールとして生活の中に定着していく。

 そんな流れが、猫の世界にもないものだろうか。

 縄張りを懸けた衝突が、本能に基づく「疑似狩猟」となり、それがなし崩し的に「狩りごっこ遊び」となって、最終的には、友好的なコミュニケーションとして定着する。

 一瞬ではあるが、そんな道筋が見えたような気がしたのである。

 そうはいっても、アタゴロウの突進はなかなかの本気モードで、突進される側にとっては、まだまだ強い緊張感を強いられるレベルのものではあるのだが。

 

 

 まあ、ね。

 仮に、アタゴロウの突進が本当に、今の「本気」モードから「遊び」モードに軟化したとしても。

 茶トラくんの方がそれに乗ってきてくれないと、結局、「遊び」は成り立たないんだけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

冬来りなば春遠からじ

 

 
 実は、アタゴロウがハゲだらけである。

 

 

 

 

 

 このほかにも、体中にある。一つ(手術痕)を除き、いずれも過剰グルーミングによるもの。

 過剰グルーミングは、必ずしもストレスによるものではない、という知見もあると聞いたことがあるが、この場合は、まあおそらくストレスだろう。

 さらに、先週は、またしても特発性膀胱炎を発症していた。今回は少々長く、一週間近くオシッコの出にくい状態が続いていたので心配した。

 今は、お陰様で普通の状態に戻っている。

 

 

 なぜ、今になって…という気もするが、そういうものなのかもしれない。

 緊張の糸が緩んだのかもしれないし、コップの水が溢れたのかもしれない。

 ただ、もう一つの可能性として、むしろ「茶トラくんが慣れてきたから」かもしれないことも、常に心の片隅に引っかかってはいる。

 

 

 

 

 茶トラくんの方は、順調に行動範囲を広げているようだ。

 私が帰宅した時、最近は、ケージの外にいることの方が多い気がする。たいてい、キャットタワーのステップか、食卓の椅子の下。先日は、押し入れの中にいた。

 これは十二月一日のこと。

 実家に渡すものがあって、姉が会社帰りに我が家に寄ってくれることになった。ついでに茶トラくん見ていく?と誘っていたのだが、生憎、その日は私が残業になってしまい、姉には玄関先に置いたブツを持って帰ってもらうだけになってしまった。

 何なら中に入って、猫たち見て行ってもいいよ、とは伝えていたのだが。

 夜、姉から届いたメッセージ。

「(荷物を)袋に詰め込んでいたら、ガラスの向こうに影がよぎるので、靴脱いで上がって、ガラス越しに面会しました。アタゴロウ君も奥に見えました。」

 

 え…!?

 

 三度見した。

「ガラス越しに面会しました」の、目的語は誰なんだ。

 まさか、ね。

 だが…。

 アタゴロウが「奥に見えた」ということは。

 何と、茶トラくんは、私の留守中にリビングの中をフラフラして、お客さんをお出迎え(あるいは見物)に行っていたらしいのだ。

 マジか。

 まあ、茶トラくんはもともとカフェ猫だから、営業の血が騒いだのかもしれない。(姉の説は「玄関に不審者が現れたのでニャルソック」。)

 

 

 この辺りから、私は、茶トラくんについては全く何の心配もしなくなった。

 彼が行動範囲を広げきれていないのは、単に、アタゴロウを警戒して近寄らないようにしているだけなのだ。アタゴロウ愛用のベッドやクッションにはさすがに触れないが、部屋の中の様々な場所は、アタゴロウがいない隙を見計らって、少しずつ探検している。アタゴロウと距離を置きながら、窓際で日向ぼっこするようになるのも、時間の問題だろう。(ヒーターの前は狭いのでしばらく無理かもしれない。)

 だが、これは見方を変えると、茶トラくんがアタゴロウの縄張りを侵犯していることであり、これがアタゴロウのストレスとなっていることは否めない。

 ところが、アタゴロウは、そんな茶トラくんを見ても、じっと見ているだけで怒ったり追い払ったりしない。

 それでいて、関係ない時に、ケージの中にいる茶トラくんに因縁をつけているのだから、イマイチよく分からないのである。

 

 

 もう一つ。

 私が密かに懸念していること。

 このところ、茶トラくんは夕食をキャットタワーのステップの上で食べることが多いのだが、その流れで、ステップに立って私を待っていることが、しばしばある。

 ついでに、これは私が悪いのかもしれない。少し前に「腰パン」を試したら、どうやらツボだったらしく、彼の中で私の評価が上がってしまった。

 そして、ついに。

 先日、ステップに立っている彼を撫でていたら、茶トラくんは、自分から私のみぞおちの辺りに頭を擦りつけてきたものである。

 地味に衝撃的な出来事であった。

(やべぇ。懐かれた。)

と、いうのは、八分の七くらい冗談であるが、残り八分の一は本気である。

 懐いてくれたのは嬉しいが、アタゴロウがどう思うだろう?と、心配になったのだ。

 パートナーがいるくせに職場の可愛い女の子を熱心に口説き、ついに浮気成功!までは良かったが、「次はいつ会えるの?」と真剣な目で尋ねられてうろたえる、能天気系チャラ男みたいなもんである。

 私に懐くより先に、アタゴロウに懐いてほしかったなあ。

 いや、そうじゃない。

 茶トラくんは別に、アタゴロウに「嫌い」の意思表示はしていないのだ。アタゴロウが怒るから、なるべく近付かないようにしているだけ。

 じゃあ、同じことがアタゴロウに言えるか。

 私に懐くより先に、茶トラくんと仲良くなってほしかったなあ。

 いやいや、それは無理。そもそも時系列的に。(笑)

 

 

 

 

 そう。つまり、もしかしたら。

 アタゴロウのハゲの原因は、私の浮気、なのかもしれないのだ。

 もとより、二匹を交互に撫でて匂いの交換に努めてきたものであるが、常に「されるがまま」のアタゴロウに対し、手を出すととりあえず頭を引っ込める(だが、撫で始めるとむしろ首を伸ばしてくる)茶トラくんは、ただ撫でるのにも時間と手間がかかる。

 しかも、撫でられそうな位置や態勢でいるところを見かけると、私がつい、チャンス!とばかりに手を出してしまうので、いきおい順番として茶トラくんを先に撫でてしまうことも多かったかもしれない。

 いわゆる「縄張り争い」とまでの強い敵意はないかもしれないが、アタゴロウの心中は、穏やかならぬ気持ちでいっぱいであるはずだ。

 そんなアタゴロウが可愛い。

 と、人間は無責任に愛しさを募らせてしまうわけであるが、それで問題が解決するわけではない。

 可哀想なアタゴロウ。

 どうしてあげたものだろうか。

 心の声が聞こえる。

(そんなの決まってるでしょ。茶トラくんがいなくなれば、平和は戻ってくるよ。)

 理屈はそのとおりだ。

 だが、これを囁いているのは、私の中の理性なのだろうか。それとも、悪魔なのだろうか。

 

 

 茶トラくんをカフェに返せば、問題は解決する。それは道理だ。そのためのトライアルなのだから。

 だが、それではあまりにも、茶トラくんが可哀想ではないか。

 ここまで引っ張っておいて、彼自身は、すっかりこの家の猫になった気だろう。それに、これだけ長期間の不在である。今、カフェに帰ったら、再びカフェの猫関係の中で、一から自分の居場所を探さなければならないかもしれないのだ。

 長期トライアルの難しいところである。

 唯一、皆が幸せになれる解決は、二匹がそれなりに仲良くなってくれることだと思うのだが、こればかりは、神のみぞ知る、である。

 私の我儘が、二匹の猫を巻き込んで、にっちもさっちもいかない状況を作り出してしまったのだろうか。

 だがこれは、後悔すべき案件なのか。現段階で、そこまで悲観的に考えるべきことなのか。

 自分の家庭の問題を、客観的に評価することは難しい。

 

 

 

 

 ただ、一つだけ「言い訳」をするとしたら。

 アタゴロウの過剰グルーミングは、実は、今回初めてではない。玉音ちゃんが亡くなった直後、茶トラくんが来る前が最初なのだ。

 膀胱炎もしかり。玉音ちゃんの闘病中に発症し、玉音ちゃん没後、一人ぼっちでのお留守番(※)が、二回目の契機である。

 つまるところ、彼は急激な環境の変化に弱い。もしくは、まるで人間のように、自分をめぐる人や猫の関係性に敏感な男である。そして多分、彼が孤独を愛するという事実はない。

 

 

 そうこう言っている間に、季節が進み、我が家もついにヒーターを常用する生活となった。

 これまで玉音ちゃんの特等席であったヒーターのまん前は、今はアタゴロウの指定席である。

 昼間は日向の猫ベッドの中。夜はヒーターの前で、幸せそうに寝ているアタゴロウを見ると、彼がやがて今の試練を乗り越えてくれるのではないかと、ついつい期待してしまうのである。

 

 

 

 

※前々回、私はアタゴロウの二回目の膀胱炎発症の契機を「仕事で極端に遅くなってしまった」こととして書いたが、これは私の記憶違いであった。本当は仕事ではなく、遠方の身内に不幸があって、一晩だけ家を留守にしたのである。夜中に家を出て夜行バスに乗り、翌日の夕飯時に帰ってくるという強行軍だったので、家を空けた時間は二十時間ほど。だが、真夜中に一人ぼっちで取り残され、夜が明けても私が帰ってこないという異常な状況に置かれたアタゴロウの不安は察するに余りある。彼には本当に申し訳ないことをした。