クイージハットル卿のラフプレー

 

 不意に顔に強い衝撃を受けて、クリストファーは思わずよろめいた。何が起こったのか、とっさに理解できなかった。痛みは後からついてきた。左の頬がひりひりと焼けるように熱く、それが次第に、じんじんとした鈍い痛みに変わっていった。

 横面を殴られたのだ、と気付いて思わず手をやると、指に血が付いた。男の長い爪が、殴打のはずみで柔らかい皮膚に傷をつけたのだろう。傷自体はごく浅いものだ。だが、何故?自分が何をしたというのか?突然の暴力の理由が理解できず、彼は面食らった。

 頬に手を当てたまま、途方に暮れて辺りを見回したクリストファーの周囲で、大きな笑いが巻き起こった。酒場にいる者たち全員がグラスを握ったまま、涙をこぼさんばかりに爆笑している。テーブルを叩いている者もいた。確かに、この光景は滑稽だろう。クリストファーの大きな体や豊かな赤毛が、いかにも育ちの良い印象を与えるだけに、不意打ちを食らってきょろきょろと辺りを見回す様は、ひどく間抜けに見えるに違いなかった。

 つまり、からかわれたのだ。

 我に返ったクリストファーが目の前の男を見返すと、男は素知らぬ顔で髭の手入れをしていた。男は――決して大柄ではない。長身のクリストファーよりむしろ一回り小さく、年齢なりに腹回りの贅肉が垂れ下がってさえいる。だが、その黒い上着の光沢や、鼻筋の青白さに反し黒々と濃いもみあげや顎髭は、何か得体の知れない、不気味な貫録を醸し出していた。

 男はクリストファーの視線に気付いて目を上げた。吊り上がった緑色の目は、笑っているようで笑っていなかった。だがあくまで嘲笑うような口調で、男は言った。

「驚いたか?坊主。だが、この界隈で、おまんまにありつこうと思ったら、少しは荒っぽい遊びも覚えないとな。」

 

 

 栗助が我が家に来て、もう八か月になる。

 トライアル中に「にゃんくる」さんから聞いた話で、新入り猫と先住が、半年を過ぎた頃から急に仲良くなったというケースもあったというが、我が家の場合も、四か月を過ぎた頃から雪解けが始まり、半年くらいで、お互い「仲間」として認識したようだ。

 アタゴロウが栗助を威嚇することも、栗助がアタゴロウを避けて逃げ回るようなこともなくなった。

 互いに、お尻の匂いを嗅ぎ合うようになったのも、この辺りからである。どちらかが相手をぺろりと舐める場面も、同じ頃から時折見受けられるようになってきた。

 こんなこともあった。

 私が栗助をリビングから締め出してしまったとき、アタゴロウは、私が栗助を入れてやるまで、ずっと扉の前に座って外の様子を窺っていた。栗助が入ってきた後は、特別構うこともなかったのだが、同じことがアタゴロウと玉音の間にもあったことを思い出して、私は一人で感慨に耽ったのだった。(「和解・夫帰る」)

 それがおそらく、二月中のできごとである。

 その後は順調にというのか、なし崩し的にと言うのか、一緒に暮らしていることが次第に当たり前となったらしい。今では毎日ドタバタと、追いかけっこやら、プロレスやら、互いのご飯の狙い合い(譲り合い?)やら、つまるところ、普通の同居猫関係を保っている。

 

 

(ハゲもだいたい治りました。)

 

 

 そうは言っても、ここに至るまでにはささやかではあるが紆余曲折はあった。

「そういえば、アタちゃんはどう?」

「オラついてる。」

 さくらとこんな会話をしたのは、栗助が来てやはり半年ほど経った頃のことだろうか。

 断っておくが、ミスタッチではない。私は本当に「オラついてる」と言ったのだ。「イラついてる」ではない。

 栗助は、温和な奴だ。誰かが言った「繊細な」という表現には、個人的には多少の疑問を抱いているが、空気を読むし、自己主張しすぎず遠慮がちだし、普段は呑気だが人見知りで内気な面もある。(さくらは「正しい猫山家の猫」と評した。)

 何しろ、もとカフェ猫という接客のプロであるにも関わらず、友人達が我が家に遊びに来た際には、一目散に押し入れに逃げ込み、ちゃっかり「いないフリ」を決め込んでいたものである。仕方なく、アタ先輩がひとりでお客様のお相手を相務め候ということになったわけであるが、一目だけでもお披露目をと、私が栗助を引っ張り出した後、押し入れの襖を閉めて退路を絶ってみたときの彼の困惑ぶりは、お前今までカフェで何してたんだと思わず突っ込みたくなる情けなさであった。

 ただし、「人も猫も好き」という説明は、間違ってはいなかったらしい。

 茶トラらしく、天真爛漫にフレンドリーな面もあるのである。

 私にも懐いたが、アタゴロウにも懐いた。

 敢えて言うなら、アタゴロウが栗助を完全に受け入れる前に、懐いたのである。多分、そうだったのだと思う。

 多分、というのは。

 アタゴロウの栗助に対する態度が、拒否なのか受容なのか分からない期間が長かったのである。

 栗助の方は、最初から、アタゴロウに対し攻撃的な態度は示さなかった。ただ、アタゴロウが怒るので、避けて回っていただけである。

 逆に、アタゴロウはいつまでも、栗助に突っかかっていた。本気の喧嘩は仕掛けないものの、追いかけまわしたり、前足ではたこうとしたり、「シャー」を言って威嚇してみたり。ある時点から、本気の攻撃ではないと分かったため静観してはいたが、やっぱりこの若僧が気に入らないのかな、と、二匹が「仲良し」になる希望を捨てかけたことは、既述のとおりである。

 だが。

 あるとき、ふと、思い出した。

 すっかり忘れていたが、アタゴロウはもとから、乱暴な遊び方をする猫なのである。

 少年時代は、ダメちゃんの背に飛びついてはロデオの如く振り落とされていたし、大きくなってからも、おじさんにしつこく取っ組み合いを仕掛けては、嫌がられて唸られていた。

 玉音ちゃんとも、彼女が仔猫の頃は良かったのだが、彼女が大人しいお嬢さんに成長すると、こちらも追っかけまわしては本気逃げされていた。ちなみに、追いかけて何をするかと言えば、やはり背中から襲い掛かるのである。ただしこれは、プロレス目的なのかエロ目的なのか判然とせず、いずれにしても、大人しい玉ちゃんに対し、アタゴロウのエネルギーが過剰なゆえのミスマッチであったという推測しか得られていない。

 だが、となると。

 もしかして、アタゴロウが栗助を追いかけまわしたり、前足で攻撃まがいのことを仕掛けたりするのは。

 これって、遊びたいのかな。

 そういう目で見始めると、そういうふうに見えてくる。

 最初はもちろん、縄張り本能に由来する敵意であり、威嚇であったはずだ。それがいつから、男子同士の「荒っぽい遊び」に変わったのか。その継ぎ目は全く分からない。おそらく、アタゴロウ本猫にも分からないだろう。

 

 

 

 

 空っぽの皿をしげしげと眺め回していた女は、振り返ると、鋭い眼でクリストファーをねめつけた。

「この皿の上に、干し肉があったはずだ。あんた、知らないとは言わないだろうね?」

 クリストファーは女の険悪な物言いに嫌な気分がしたが、なるべくそれを顔に出さないように、努めて愛想よく答えた。

「僕が食べました。――お腹が空いていたので。」

 あまりにもあけすけな返答に、女はあっけにとられたように、ほんの二、三秒、クリストファーを見つめていた。それから、言葉にならない金切り声を上げたかと思うと、テーブルを叩きながら大声で男を呼んだ。

「アタンリー!アタンリー!」

 寝室のドアが開き、顎髭の男が顔を出した。

「何の用だ。」

 女は足を踏み鳴らしながら喚いた。

「この若殿さまが、あんたの夜食を食べちまったよ。お腹が空いていらしたんだとさ!」

 男は眉根を寄せたまま、大股で台所に歩み入った。クリストファーは訳がわからぬまま、とりあえず愛想のよい笑みを浮かべて男に頷いて見せた。

 アタンリーと呼ばれた男はクリストファーの眼前に立つと、この赤毛の若者の頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと値踏みするように目を走らせた。

「腹が減っていた、とな? そりゃご立派な理由だ。だが、これが誰のメシだか、考えてはみなかったのか。」

 クリストファーは困惑した。確かに、彼は何も考えていなかった。だがそれは、皿の上の肉が、明らかに食べ残しであったからだ。誰もいない台所に放置された食べ残しを、空腹で倒れそうになっている若者が頂戴したところで、何がいけないというのだろう。男の威圧的な物言いにもクリストファーは気分を害したが、ここでこの男を怒らせるのは得策ではないと気付き、ただ黙って視線をそらした。

 

 

 栗助は温和な奴である。

 アタゴロウは依然として、先輩風を吹かせて威張っているが、栗助は彼に突然殴りかかられても、避けるだけで反撃しない。怒りもしない。

 アタゴロウの方は気まぐれで、栗助に優しく鼻を寄せていくので、舐めてやるのかなと思うと、突然、気が変わって、パンチを繰り出したりする。

 だが、では栗助が気弱な奴なのかというと、そうでもない。

 何しろ、こいつは我が家で初の、「他猫のご飯を奪取する猫」なのである。

 我が家は基本的に常に多頭飼いなのであるが、歴代の猫同士の間では、「他猫の食べているご飯の皿には顔を突っ込まない」という暗黙のルールがあった。このため、皿の主不在時の盗み食いはあっても、ひとつの皿を巡って奪い合いになることは、未だかつてなかったのである。

 よく考えれば凄いことだ。これも、ダメちゃんの教育の賜物だったのだろうか。

 ところが、栗助は平気でアタゴロウの皿を狙う。攻撃したり威嚇したりして奪うわけではないが、アタゴロウが食べている最中でも、隙を見て同じ皿に鼻先を突っ込もうとするので、アタゴロウの方が嫌がってその場を離れてしまうのだ。

 ただし、断言するが、栗助自身には、何の悪気もない。

 繰り返すが、栗助は温和な奴である。遠慮深い面もある。その一方で、時にこうした強気な行動に出るというのは、一見、矛盾しているように見えるかもしれない。

 だが、そうではない。私に言わせれば、それは単なる「陽気な無神経」である。

 つまるところ。

 栗助もやはり、茶トラだったのだ。

 慎重すぎるほど慎重で、大人しくて、空気を読む。遠慮深くて、人見知りで、甘え下手。

 当初、栗助が見せた性格は、いわゆる茶トラのイメージの対極を行くものだった。

 茶トラと言えば、陽気でお調子者で、おっちょこちょいのお馬鹿キャラというのが定番だと思うのだが、当初、栗助にはそうした傾向が全く見られなかった。

 茶トラでもこういう猫もいるんだな、と、少々見込み違いの感がしていたのだが。

 杞憂であった。

 やはり茶トラは茶トラである。

 栗助の場合、彼のチャトライズムは「他者の悪感情の存在に気付かない」というものである。というより、何の根拠もなく相手の好意を信じて疑わない点である。

 多分、栗助がアタゴロウのご飯を奪うのはいわば結果論である。彼はアタゴロウの食べているご飯を自分も食べたいだけで、アタゴロウを追い払う気持ちなど毛頭ない。いわんや、アタゴロウに対し、羨望だの嫉妬だのといった悪意は皆無であると断言していい。

 なぜって。

 どうやら、私の見たところ、栗助はアタゴロウが大好きだからだ。

 アタゴロウは私が大好きなので、何かにつけてべったり甘えにくるのだが、私とアタゴロウがいちゃいちゃしていると、栗助がどこからともなく現れ、自分も参加しようと近付いてくる。

 もちろん、逆もまた有り、私が栗助を撫でていると、もれなくアタゴロウが割って入ってくる。そして、栗助を押しのけて自分が私に撫でられようとする。

 ところが。

 栗助は、私がアタゴロウを撫でていると、私ではなくアタゴロウの方に擦り寄っていくのである。

 それはむしろ、私が栗助に嫌われているってことじゃないか、って?

 いやいや。

 そこまで嫌われてはいませんよ。現に今も、私が北側の部屋に籠ってこの原稿を書いている間、栗助はずっと隣のソファで寝ていたのだから。

 栗助は、アタゴロウが好き。

 だがそれは、なかなかに驚くべきことである。

 だって、アタゴロウは、理由もなく栗助に殴りかかるパワハラ先輩なんですよ。

 しかも、最初に書いたように、温和で平和主義の栗助に対し、アタ先輩は、「荒っぽい遊び」を好む男なのだ。

 当初はあれだけ威嚇されてたのに。殴られたり、追いかけまわされたり、それはそれは酷い目にあわされたのに。

 怒らない・反撃しない栗助は、ただただ、気弱でおっとりした子なのだと思っていた。

 でも、ひょっとしたら。

 栗助の側は最初から、怒られているのではなく、「荒っぽい遊び」を仕掛けられているとしか認識していなかったのかもしれない。

 いやまさか、そこまで能天気ではないだろうけれど。いくら茶トラだからって。

 

 

「お前、何て名だ?」

 中年男は相変わらず横を向いたまま、ぶっきらぼうに尋ねた。

「クリストファーです。――クリストファー・ドーロング。」

 礼儀に則ってフル・ネームを名乗るべきだったろうか。クリストファーは瞬時、躊躇した。だがここで自分の称号を明らかにすることは、却って相手の逆鱗に触れるような気がした。称号なんてものは、必要もなく自分からひけらかすもんじゃない。相手が相手なら、そんなものは自然に分かる。分からない相手には、最初から伝える必要がない。それが父である故クイージハットル卿の教えだった。

「クリストファーか。」

 男は機械的に繰り返した後、怒ったような口調で、こう付け加えた。

「お前のしっぽは、こう、特徴的な形をしてるな。え!?」

 クリストファーは思わず返事に詰まった。状況が理解できなかった。なぜここで、しっぽの話が出てくるのだ。この男は一体、自分に何を言おうとしているのだろうか。

 そのとき、男が横目でちらりとクリストファーを見た。目が合ったその一瞬に、ようやく彼は理解した。それが男の不器用な誉め言葉であるということを。

「アタンリー・ブラックホワイトだ。」

 男は不愛想に、自らの名を述べた。クリストファーはその名前を、頭の中で何度も繰り返した。アタンリーさん。アタンリーさん。不意に、これまで頭上に垂れこめていた暗い雲が消えて、ぱっと明るい光が差したような気がした。このひとは悪いひとじゃない。ただ照れ屋で、不器用で、本当は凄く優しいひとなんだ。そうに違いない。

「アタンリーさん。どうかよろしく!」

 嬉しさの余り、クリストファーは彼に駆け寄ると、上着をはだけたその胸元に、赤毛の頭をこすりつけようとした。だが、突然予想外の突進を食らったアタンリーはよろけ、カッとなってクリストファーの頭を殴りつけた。

「あはは。ごめんなさい、アタンリーさん。でも、あなたがいいひとで、本当に良かった!」

 クリストファーは全く悪びれずに、またしても、アタンリーの顎の下に頭突きを試みた。アタンリーは呆気にとられた。何をしているんだ、この若僧は。俺が怒ってるのが分からないのか。どこのお坊ちゃんだか知らないが、ずいぶん雑な礼儀作法じゃないか。

 ふと見ると、クリストファーはいつの間にか、ちゃっかりと、アタンリーの皿に残っていた肉の切れ端を自分の口に入れていた。それを見て、アタンリーは完全に怒る気を無くした。こいつは、俺が名乗ったことで、何もかも許されたと思ったんだ。これは果たして、天衣無縫な無邪気さと言うべきなのか。それとも、無神経な礼儀知らずと言うべきなのか。

 いずれにしても、アタンリーがはっきりと悟ったことがあった。それは、この赤毛の若者に対しては、怒っても怒鳴っても一切無駄だということだった。

 

 

クリストファー・胴ロング。(てか、お前太ったな。)

 

 

 

 無邪気と無神経は、紙一重である。

 そして。

 ついでに言うなら、無神経と乱暴も、紙一重なところがある。

 栗助はおそらく、自分の体の大きさを考えていない。その体重と体高をもって、アタゴロウの胸元に頭をすり寄せに行くから、毎度、アタゴロウを斜め下から突き飛ばすようなことになるのだ。

 アタゴロウは迷惑そうにしているけれど、別に怒っている様子もないので、多分、それが好意の表現であることは分かっているのだろう。

 ただし、怒ってはいなくても、殴ることはある。そしてそれが、追っかけ合いの取っ組み合いに発展することもある。

 

 

 要するに。

 これもまた、「荒っぽい遊び」の一環なんだろうな。

 ただし、これについては、栗助の側から仕掛けていることになるのだけれど。

 

 

誰にでも分かります。

 

 

 ところで、You Tubeに投稿せずに動画をブログに貼りつける方法を見つけたので、試してみたのだが、どうだろうか。

(背後の生活音がうるさいので、予めミュートにしておくことをお勧めします。)

 

 

 

 

 ちなみに、背後の騒音は、洗濯機である(多分)。うるさくて申し訳ない。

 なお、この動画を家族や友人達に見せたところ、おおむね「ほっこり系」として受け止められたようであった。だが、この記事の内容を踏まえてこれを見ると、別の視点が生じると思う。

 実は、栗助は、アタゴロウが優しく接しているときでも、決して警戒を緩めていない。いつ先輩の気が変わって、殴られないとも限らないからだ。

 このことを念頭に、栗助の表情に注目して動画を見返してほしい。きっと、別の意味で笑える。