ごたごた荘のすぐまえに


 

 昨年の五月下旬である。

 慌ただしく人が行き交うフロアの片隅で、二人の女が小声で話し合っていた。

 いい歳をした大人が二人。どちらもすこぶる真剣な表情である。だが、もし、誰かがその会話を盗み聞いたら、思わず吹き出していたかもしれない。そのくらい、その会話は荒唐無稽だった。

「猫はね、生まれ変わりが早いんですよ。」

 彼女は、真顔で私に言い切った。

「それにね、猫は、次も猫に生まれてくるんです。人間になりたいとか、思わないのね。猫であることに満足しているから。」

「猫ですものね。」

「そう。それで、また猫になって、飼い主に会いに来るんです。」

 彼女は、私を元気づけようとして、ただ出鱈目を言ったのかもしれない。

 だが、私にはそうは思えなかった。そのくらい、彼女は真面目で、その口調には、断固たる確信が溢れていた。

 その彼女の確信がどこから来たのか。その情報のソースはどこにあるのか。

 私は訊かなかった。もちろん、それが科学的でないことは知っている。だが、彼女のその圧倒的な優しさゆえに、私はそれを信じた。

「そうですね。きっと、もうちょっと待てば、また玉ちゃんに会えますね。」

 

 

 

  

 当時の私が、玉音のことを「天使」と表現していたのは、旅立っていった彼女への、いわば鎮魂の意味を込めてのことである。

 彼女の生前、私が思っていたのはむしろ、

(この子は、妖精みたいな子だな。)

ということだった。

 今でもそう思っている。

 妖精みたいな子。

「玉音」という名前は、はじめに「たまね」という読み方があって、そこに漢字をあてた。

 私がまず考えたのは「珠音」であった。女の子らしい、綺麗な感じがする。

 だが、さくらに反対された。

「珠は良くない。儚い感じがする。」

 だから敢えて、「玉音放送」と被るのを承知で、「玉」の字をあてたのだ。

 さくらはこの一件を忘れているかもしれない。だが私は、玉音との暮らしの中で、何度もそれを思い出していた。

 さくらが「儚さ」を案じたのは、ただの偶然だったのだろうか。

 玉音が私の許に来たのは、決して偶然ではない。玉音は、神様が選んで私の手の中に置いてくれた子だ。

 いつのころからか、私はそう信じるようになっていた。

 諸々の理由の大半は、もう覚えていない。だが一つだけ、当時から今に至るまで、ずっと確信していたことがある。

 この子は、野生では生き残れなかった子だ。

 体も弱い。力も弱い。そして、気持ちも弱い。常に他の猫に、争う前から負けている。

 この子はもとより、自然界の中では淘汰されるべき命として、この世に生を受けたのではなかったか。

 その子が、私の手の中にいる。

 神様が私のために、この子を、その運命の中からすくい上げて、私に託してくれたのだ。

 弱さばかりではない。その被毛の透き通るような純白も、瞳のきれいなオリーブ色も、小さな顔も、少し曲がった尻尾も、つまり、彼女の容姿そのものにも、何か儚い印象ある。

 怖がりで、引っ込み思案で、甘えたいのに逃げてばかりいて。

 抱きしめたいのに、抱きしめられない。

 寄り添っていたいのに、傍に来てくれない。

 手を伸ばせば喜んで撫でさせてくれるのに、私の体が近付くと、いたちごっこのように、詰めた距離の分だけ逃げていく。

 もどかしい愛娘。

 妖精みたいな子。

 そっと触れたときにてのひらに感じる、その体温や被毛のふんわりとした柔らかさも、命の手ごたえというより、繊細なコワレモノのような感じがした。

 それでいて、そのガラス細工のようなイメージを覆す、動物らしい特徴。

「この子、何だかお尻が臭いんですけど。」

 近付くと匂うことが頻繁にあった。お腹の調子が悪いのかと、動物病院で尋ねてみたこともある。

 当時の私は、それが肛門腺の匂いだということを知らなかった。そして、それが、仔猫が母猫の注意を惹くために分泌する、愛情と信頼の証であるということも。

 

 

  

 

 私が人生で最初に好きになった作家はリンドグレーンである。「長くつ下のピッピ」の作者と言えば分かるだろうか。小学校低学年から三、四年生くらいの頃ではないかと思う。

 当時、近所には図書館がなかったので、市から「移動図書館」という図書を積んだバスが、週に一回、派遣されていた。そのバスの停車場所が家から近かったこともあって、我が家でも、母が毎週、大きな買い物袋を提げて、子供たちのために本を借りに行っていた。

 私がリンドグレーンの作品が好きだと言うと、母は移動図書館リンドグレーンの本があると、必ず借りてくれた。リクエストもしてくれていたかもしれない。

 こうして、学童期にリンドグレーン作品は相当数読破した…はずなのだが、今、内容を覚えている作品は、残念ながら二つしかない。そのうちの一つが件の「ピッピ」である。

 先日、ふと、ピッピのことを思い出し、フルネームは何だっけ?とか、靴下の色は?とか、細かいことを思い出せずにいるうちに、気になりすぎてつい、岩波少年文庫のピッピ三部作を衝動買いしてしまった。

 ピッピは九歳の女の子である。馬を持ち上げられるほどの怪力で、大金持ち(金貨がいっぱい詰まったトランクを持っている)で、「ごたごた荘」に住んでいる。同居者は猿と馬、つまり、一人暮らしだ。お母さんは天使(ピッピが小さい頃に亡くなった)で、お父さんは「南の島の王様」。これは、もともと船長だった父が、嵐の日に船から海中に転落して行方不明になったことから、ピッピがそう信じているという設定なのだが、後半、本当に南の島の王様になっていたことが判明する。

 ネットを見ると、大人になってピッピを読み返した人の感想は真っ二つで、子供の頃のワクワクを思い出して懐かしむ人と、大人目線ではピッピがワルイコ過ぎて感情移入できないという人とに分かれるようだ。

 私は幸い、前者だった。大人が読んでも「ピッピ」は面白い。むしろ、大人目線で見ると、ピッピは学問とマナーを欠いているだけで、その善悪に対するバランス感覚に富んだ態度や、他者への細やかな気遣いは、下手な成人よりよほど大人であることがわかる。彼女のほら話は基本的に相手を楽しませるための「盛り」であって、話の内容はなかなかウィットに富み、毒がない。会話での切り返しの鋭さは、頭の回転の速さとセンスを感じさせる。

 ピッピが教養とマナーを身に着けたら、素晴らしいレディになったことだろう。

 だが、そのピッピの「大人な」キャラクターを意識すればするほど、私は、子供時代に考えた以上に、これがおとぎ話であるという感を強くしていた。

 もちろん、ピッピが実在するはずのないキャラクターであることは、子供のころから分かっていた。だが、彼女には人間らしいリアリティがあり、ネットの感想文に出てくるように、こんな子が友達にいたら楽しいだろうな、という想像は、子供らしい願望として無理なく導き出されるものだ。

 一方、大人になった私が思ったのは、この子を大人にはできないな、ということだった。

 大人に「なれない」のではない。「できない」のだ。

 赤毛のアンは、成長して大人になった姿が、続く作品群に描かれている。だが、ピッピが大人になることはない。大人になったら、子供の夢である「ピッピ」という存在は消えてしまう。彼女は、ピーターパンの女の子版であると言ってもいいかもしれない。

 言い換えるなら、リンドグレーンはピッピを、特別な能力を持つ人間の女の子としてではなく、いわば、別の世界から来た存在として描いたのではないか、と、私は思ったのだ。

 ピッピは大人にならない。大人のピッピは存在しない。子供の夢である彼女は、子供時代の数年間だけ、隣に住むことを許された存在である。リンドグレーンは、ピッピと友人達(副主人公のトミーとアンニカ)が、大人にならないための「生命の丸薬」(黄色いエンドウ豆にそっくり。ピッピ曰く「長いことうちの戸棚に入っていたから、丸薬の力が抜けていないとは言い切れない」。)を飲むくだりでピッピの物語を終わらせているが、おそらく、もし頼まれても、その続きを書く気はなかったのではないか。

 子供は大人に憧れる。大人は子供にはない力(パワー)を持っているからだ。体力、腕力、知力、そして経済力や権力(もしくは、他者への影響力)。だが、ピッピは子供でありながら、それらを全て持っている。

 大人になることは、それらのパワーを手に入れることだ。そして、その代償として、さまざまな自由を失っていくことだ。

 パワーも自由も、両方を持っているピッピは、完全無欠の存在であるはずだ。だが、「命の丸薬」を飲んだ夜、彼女は友人たちの見下ろす窓を振り返ることもなく、ひとりローソクの火を見つめ続け、そして、それを吹き消す。

 それは、トミーとアンニカの子供時代の終わりの象徴であり、彼らの人生からのピッピの退場を予告するものだ。

 子供が「大人になりたくない」と叫ぶとき、それはその子の子供時代の終焉に等しい。

 子供時代を通り過ぎたトミーとアンニカの隣にピッピはいない。ピッピの退場は、いわば予定調和だ。彼女ははじめから、数年後には消えるべき存在として、彼等の隣家に現れた。つまるところ、全てがフェアリーテイルだったのだ、と言うと、身も蓋もなさすぎるだろうか。

 そう考えると、元気いっぱいで自由奔放なピッピが、不思議と儚く、哀しく見えてくる。だが、誓って彼女はかよわい存在ではないし、現実世界から消えていくことが、彼女の不幸でもない。(もし、ピッピの退場を文学として描くなら、「お父さんのいる南の島に移住する」という物語になるはずだ。)

 ピッピは美しい。そして儚い。それは彼女が子供の夢であり憧れであるからだ。だが、その夢や憧れは、決して脆く消え易いものではない。明るく力強く、活力と可能性に満ちたものだ。

 儚いから美しいのではない。美しいから儚いのだ。

 期間を限定で与えられる夢。予定調和的に消えていく喜び。

 その儚さに哀しみを見出すのは、自由を失った大人の目線である。儚さと強さ、儚さと鮮やかさ、そして至上の幸せ。自由な子供の目線で見れば、それらは併存し得るものだということを、ピッピは教えてくれているような気がする。

 

 

  

 

 同じリンドグレーンの作品に「はるかな国の兄弟」がある。

 明るく痛快なピッピの活劇と違って、こちらはリンドグレーンの死生観を現すと言われる、深く重いファンタジーだ。何しろ、主人公の兄弟の死から、物語は始まるのだから。

 私が二つだけ覚えていたリンドグレーン作品のもう一つが、この物語である。思うに、多数ある彼女の作品群の中で、これらがいわば両極端であったが故に、この二つだけが印象に残っていたのではないか。

 主人公の兄弟は死後の世界で、竜と闘うなど、ファンタジックな冒険を繰り広げるわけだが、私がはっきりと覚えていたのは、その前段にあたる部分である。

 兄弟の生前、兄のヨナタンは健康で容姿も美しく、賢く、優しく、母(父はいない)の自慢の息子である。対して、弟のカールは病気(結核?)を患い、寝たきりで余命いくばくもない。ところが、皮肉にも、兄弟の住む家が火事になり、弟を助けたヨナタンは代わりに自分が命を落とす。

 彼亡き後の母子の不幸は、想像するに余りある。

 その後、カールも病死し、死後の世界で兄と再会するわけなのだが、死後の世界で、それと気付いたときのカールの描写が、子供の私にとって鮮烈であった。

 簡単に言えば、彼は全くの健康体になっていたのだ。

 咳も出ない。走れる。泳げる。また、生前のカールは「足がまがっていた」とあるが、その曲がった脚もまっすぐになっていた。服のまま小川に転げ込み、泳ぎを楽しんだカールは、水から上がり、脚にぴったりとはりついたズボンを見てそれを悟るのである。

 ただ、その世界自体は、生前ヨナタンが弟に語り聞かせていたような理想郷ではなく、再会した兄弟もやむなく、幼い戦士として、対立する人間同士が導く危険な戦いに身を投じていくことになる。そのくだりはここには書かないが、そこにもやはり「死」はあり、その先には次の世界が待っているということを暗示して、物語は終わる。

 正直なところ、ふたりの戦いや冒険のストーリー展開については、ほとんど記憶がなかった。私の心に強く残っていたのは、「カールが死後の世界で健康になったこと」と、「死後の世界も人の世であり、そこにも死があって来世があること」の二点である。

 死ぬことによって、新しい肉体を得る。

 死後の世界は、天国でも地獄でもなく、良い人も悪い人も、愛も憎しみも嫉妬も存在する普通の世界であり、そこからまた、死んで次の世界に行く。

 これらはつまり、転生ということではないのか。

 では、私が輪廻転生を信じているのかと言われると、それはどちらとも言えない。リサイクル可能な魂というものが(概念としてでなく)実在するのか、実在するとして、その転生先が時間と空間を隔てた同じ世界の中なのか、あるいは全く別の世界(パラレルワールド)なのか、私にはそういった深遠な問題を追及する頭脳も精神力もないし、敢えて言うなら関心もない。ただ、人の性(さが)として、生まれ変わりにより愛する者と再び巡り会うという夢は、ロマンティックな可能性として、常に心の中にある。

 そのロマンティシズムにリアリティを与えたのが、この作品だったのだ。

 繰り返すが、命が転生するのか、それは私には分からない。だが、転生すると仮定したとき、新しい命と共に、病める者も健康な体を得る。そして、また次の人生を生きて、さらに転生していく。そんなイメージが、児童書の挿絵とともに脳裏に視覚的に刷り込まれ、今日まで色褪せずにいるのである。

 

 

 

 

  

 冒頭の会話に戻る。

 猫の転生は早い、と、同僚は言った。

 玉音が逝去して一年。彼女は今、どこにいるのだろう。

 彼女は私に、会いに来てくれるだろうか。

 彼女は何故、死んだのだろう。彼女の死を、生と病と死という、淡々とした命の営みの一環として受け止めていない自分がいる。

 玉音は、生後おそらく二か月足らずで私の許に来た。その時点で、FIVに感染していた。

 母子感染なのかは分からない。だがいずれにしても、それは生まれた時から時限爆弾を抱えていたようなものだと言っていい。感染から七年で発症というのは、私が全く想像していなかっただけで、別に異例の早さというわけではない。もっと遅い子や、死ぬまで発症しない子もいるというだけのことだ。

 ふと思うことがある。

 玉音は最初から、期限を切られてこの世に送り出されてきた子だったのではないかと。

 あるいは、もしかしたら。

 同じく、若くして私の許を去った子たち。即ち、ミミかムムが、中断された残りの命を生ききるために、特別に許されて戻ってきた姿。それが玉音だったのではないかと。

 そうかもしれない。そうでないかもしれない。

 だがそれは、どちらでもいいことだ。もし、玉音が他の猫の転生した姿であったとしても、新しい命と、肉体と、名前を得た時点で、玉音は玉音だ。それが短い、儚いものであったとしても、それは玉音の猫生であり、玉音の命の輝きだ。

 妖精のような玉音ちゃん。

 玉ちゃんに会いたい。もう一度、その毛皮に触れたい。許してくれるなら、もう一度抱きしめたい。

 その命の神秘ということも含めて、本当は、私は彼女のことを何も理解していないのかもしれない。だが、その生涯に寄り添った者として、一つだけ確信を持っていることがある。それは、彼女がもっと生きたかったということだ。 

 仮に、彼女の生涯の短さが、最初から定められていた“予定調和”であったとしても、玉音の命は輝いていた。彼女は温かく柔らかく、ちゃんと肛門腺の匂いもする、生きた生身の猫だった。動物病院では肉球にびっしょりと汗をかき、日常では飼い主に平気で「シャー」を言う、臆病で気まぐれな可愛いお嬢さんだった。

 彼女の美しさ。透き通るような被毛も、ガラスのように澄んだ瞳のオリーブ色も、全て、彼女の命の光に照らされて輝いていたのだ。

 それはあまりに、儚い印象を与えるものではあったけれど。

 玉ちゃんに、帰ってきてほしい。彼女が生ききれなかった残りの生涯を、もう一度、私の傍で過ごしてほしい。

 それは私の切なる願いであり、祈りである。

 だが。

 もう一つの願いがある。

 玉音が帰ってくるとき、あるいは次に生まれてくるときは、こんどは、強い体と、強い心を持って生まれてきてほしい。そして、彼女が望む猫生を、自由に、力いっぱい生ききってほしい。仮にそれが短い「残りの生涯」であったとしても。

 ピッピのように。

 その祈りは、私の玉音に対する、精一杯の愛情である。

 私の中の私が嗤う。

 それは、両立しない願いだよね。

 もし、玉音が、強気でたくましい猫になって現れたら、私にはそれが彼女だと分からないだろうから。

 いずれにしても、その子は、私の知っている玉ちゃんではない。言うまでもなく、新しい命を得た時点で、彼女は別の猫なのだから。

 猫はまた猫に生まれてくる、と、同僚は言った。

 あれから一年。

 玉音は今、どこにいるのだろう。どんな猫で、何という名前なのだろう。

 もしかしたら彼女は今、新しい飼い主の許で、毎日幸せに暴れているかもしれない。前の猫生のことなど思い出すこともなく。

 それでいいのだ。

 玉音ちゃん。

 あなたが幸せになってくれることが、何より大切なことなのだから。

 あなたが私の娘でなくなってしまうことは、私にとって、心を引き裂かれるほど辛いことではあるけれど。

 

 

 けれど、もしも。

 今の猫生で辛い思いをするようなら、どんな姿でもいいから、ここに戻っておいで。

 八年と七か月前、あなたは神様の手で、あるいは運命に導かれて、私の許に来た。だからきっと、次もまた、誰かがここへ導いてくれる。

 だから、ね。

 あなたが帰ってこないのは、幸せになった証拠だと、そう信じることにするよ。

 私の可愛い玉音ちゃん。

 

 

 

「わたしのかわいいスプンクちゃん。」ピッピは、やさしく話しました。「いつかは、みつけられるって、わたしにはわかっていたわ。でも、ずいぶんおかしいわね。わたしたち、スプンクをさがして、町じゅうをまわったけど、そのあいだじゅう、スプンクは、ごたごた荘のすぐまえにいたんだわ!」

(『ピッピ南の島へ』アストリッド・リンドグレーン作 大塚勇三訳 より)  

 

  

 

 

 

 

 

註)「スプンク」はその朝、ピッピがみつけた「あたらしいことば」。ピッピ、トミー、アンニカは、「スプンク」を探して町じゅうを巡り歩く。