月の瞳
先日、職場で
「神秘的な猫を飼っているんですってね。」
と、言われた。
へ!?
神秘的な猫なんて、いたっけか?
あ…。
そうか。そういうことか。
「ああ、『幻の猫』ですね。いますよ、滅多に見られないのが。」
ヨメのことである。
私以外の人間が現れると、とたんに物陰に隠れてしまい、なかなか姿を見ることができなかったから、「幻の猫」と呼ばれていた。
このごろは、多少、見えるところに出てくるようになったので、実在する猫であることだけは、とりあえず証明されたところである。
しかし、「幻の猫」ネタは、もうすでに古いので、何で今さらそんな話が出てきたのかな?という、淡い疑問だけは残った。
ところが。
どうやらそういう話ではない、ということが、後から分かった。
というのは、我が家に「神秘的な猫がいる」と言いだしたのが、震災の日、うちに泊まっていった先輩だ、ということが判明したのである。
その夜、猫どもはさすがに緊張していたようではあるが、基本的には普通に振る舞っていた。ヨメも、積極的に近寄っては来なかったが、ごはんも食べたしトイレにも行った。人間のいるあたりを絶えず警戒しつつも、見えるところにはいたのである。
つまり。
その先輩にとって、ヨメは「幻の猫」ではなかったのだ。
それなら、神秘的って…?
何のこと?
そして、誰のこと…?
手っ取り早く、本人に確認することにした。
「だって、ヨメちゃんの目は、神秘的じゃない。」
と、先輩はこともなげに言った。
神秘的?
あれが?
だが、先輩は、それ以上説明しようとはなさらなかった。明らかな事実を述べたまでだ、とでも言いたげな、淡々とした態度で、さっさと仕事に戻ってしまった。
家に帰って、ヨメの目を、改めて凝視してみる。
金目。
顔が殆ど黒だから、確かに、金色の虹彩は引き立って見える。
いや、そんなことは、最初から気付いていた。
ミミさんだって、黒毛に金目だった。だが、言わせてもらえば、その金目の美しさは、悪いけど、ヨメが逆立ちしたって(こいつなら本当にやりそうだが)、ミミさんには及ばない。ミミさんの瞳は、本当に、ドキっとするほど美しかったのだ。正に、ぬばたまの夜空に輝く月のごとく、であった。
だいいち、ヨメの場合、目玉単体ならそれなりに綺麗かもしれないが、顔全体としては、どうもイマイチである。目がまん丸で、やや小さい。ついでに言うと、この丸い目をはじめ、こいつは長毛種の形質を半端に受け継いでいるところがあって、ダメと比べると、ストップ(眉間のくぼみ)が深く、結果的に顔の奥行きが浅めである。そのくせ、正面から見た顔の形は、短毛種の逆三角形で、体型も明らかに短毛体型なのだ。
ミミさんは、長毛と短毛の「いいとこ取り」の成功例みたいな猫だったが、ヨメは逆に「悪いとこ取り」というか、言わば、無計画にいいとこ取りをしようとして、結果的にバランスにおいて失敗している見本みたいな奴なのである。普段の衣裳はかわいいのに、紅白になると、とたんにゴテゴテやりすぎて悪趣味に堕していた、初期の某アイドルみたいなものである。
いや、これはこれで可愛い、と、飼い主的には思わないでもないのだが。
(ヨメのストップ)
(参考:ダメのストップ)
違った。容姿の話をしていたのではなかった。
お題は、猫の瞳の神秘性、である。
ロイヤルカナンさんの「猫の百科事典」によれば、古代ギリシャでは、猫は月の象徴とされ、月の女神アルテミスは、大蛇に襲われた際、猫に姿を変えてエジプトに逃れたという話もあるらしい。(そこで、古代エジプトの猫頭の女神バテストと結び付く。)
猫と月との関係は、猫の瞳孔の特徴から生じている。古代ギリシャ人は、猫の瞳孔が丸くなったり細くなったりする現象を科学的に説明できなかったため、それが、月の満ち欠けに関係があると考えた、ということなのだそうだ。
なるほど。
うんちくが加わると、なかなかどうして、話に箔がついてくる。
私自身も、猫を飼い始める前は、「猫は神秘的」という言葉に、特に根拠はないものの、何となく同意していた。
が、実際に飼い始めると、猫だって、血も肉も性格も感情もある、一個の生き物だということが、いやというほど分かってくる。自然、「神秘的」という感覚は薄れてきてはいたのだが。
例外的に、猫の中の底知れぬ未知性を、強く感じることも、時としてあった。
ジンの瞳、そしてミミの瞳。
彼女たちの目をのぞきこんだとき、そんな気持ちになることが、往々にしてあったのである。
それは、写真には残っていないし、多分、その瞬間にシャッターを切ったとしても、第三者には分からないものになっていたに違いない。
賢い猫は、独特の賢い瞳をしている、というのが、私の持論である。
「猫は人間の次に賢い動物である」という説があるらしい。この場合の「賢い」とは、どういう物差しで測った知性を指すのかは知らないが、私は、人間に肉迫する猫の賢さを「情緒の面において」と見る。
ジンもミミも、賢さにおいて、他の猫たちを一猫身以上、引き離していた、と思う。それは、「閉まった扉を自力で開けてしまう」というジンの特技のような、具体的な生活の知恵ゆえでもあるが、それ以上に、人の心理や精神の力学を洞察し、それを受けて己の身の処し方を判断する、という、いわば心理戦における頭脳の回転の正確さが、下手な人間よりずっと上だった、と思わざるを得ないからである。
そして、その二匹の瞳は、説明できないが、他の猫たちにはないものを秘めていた。
神秘性、というより、飼い主にさえ探りきれない、底知れぬ知性、とでもいうべきもの。
人間にさえ感じたことのないそれを、猫の瞳は感じさせるのである。
ただし。
以上の話は、今は亡きジンとミミについてのことである。
残念ながら、私はまだヨメの瞳に、そんな底の深さを感じたことがない。
こいつはこいつで、若いだけあってきれいな目をしているし、ブチャなりに可愛い、と、思ってはいるのだが。
しかし。
人に指摘されて、少々不安になってきた。
私の猫の瞳妄想は、単なる、失った猫に対する美化感情ではないのか。
あるいは、本当は、ヨメだってそんな知性を瞳にひらめかせているのに、私の方が、気が付いていないだけなのではないか。
「小さいころから飼っているから、ムムちゃんは子供みたいに思えるでしょう?」
と、時々人に尋ねられるが、私はきっぱりと、
「いいえ、そんなことはありません。」
と、答えている。
何歳で来ようが、嫁いで何年経とうが、ヨメはヨメである。
ヨメと姑に、親子の絆なんて、永遠に結ばれるはずがないのだ。(少なくとも、我が家ではね。)
だが、となると、姑である私のヨメ観には、自然とバイアスがかかり、彼女の本来の資質を見逃している(敢えて見ないようにしている)ということは、充分に考えられるのだ。
ううむ。
神秘的、ねえ。
神秘的…神秘的…
あ、こら。
何で逃げるのさ。まだ、何にもしてないじゃないか!(怒)
でも。
私には分からないけど、第三者の目から見ると、ヨメにも「ぶちゃ可愛い」を超えた、視覚的な魅力があるのかもしれない。
私にはそれなりに可愛く見えるのは、単に情が移ったからだ、と、思っていたけれど。
こいつも年頃になって、妖艶な女の魅力が花開きつつある…のだろうか。
今は亡き美猫たちを偲びつつ、ヨメのことをちょっとばかり見直した私であった。
(キミはハンサムだけど、もうおじさんだからね。)
ところで。
その二〜三日後のことである。
何の話題だっただろう。職場で件の先輩と話をしていた時、先輩がふと、こんなことをおっしゃった。
「でも、朝、目が覚めて、ヨメちゃんがあの目で見降ろしていたら、コワイでしょう。」
へ!?
コワイって…
何だ。要するに、妖怪扱いだったわけか。