別れと、クチナシと、優しいダメちゃんと。


 
 
 クチナシが、咲いている。
 ああ、ムムの季節だな、と、思う。
 ムムが逝って二年。正直な話、あの日クチナシが本当に咲いていたかどうか、私は覚えていない。それがクチナシの季節であったことに気付いたのは、昨年のことだ。
 だが今年も、六月に入り、ムムの三回忌を意識し始めたころから、私は同時に、通勤路にあるクチナシの茂みを見るともなしに見るようになっていた。
 花はまだだろうか、と。
 本当に、ムムの記念日に、クチナシは咲くのだろうか、と。
 そして今、我が家の近所にあるクチナシの茂みは、二つとも正に花盛りを迎えている。
 数日前、花が咲き始め、梅雨の湿った空気の中に、はじめてあの濃厚な香りを感じとった時、私は何か、ほっとするような、懐かしいような思いに捉われた。
 そう。これだ。これが、私の待っていた感覚だ。
 クチナシの香りが呼び覚ます感傷は、ムムがこの世を去った日のそれではない。むしろその一年後、ああもう一年経ったんだな、という感慨を覚えた時の、切なくも美しいメランコリーとでも言うべき感覚である。
 それでも、クチナシの香りは、私をムムの思い出へと導くしるべとなった。
 思い出とは、どんな思い出だろう。
 思い出そうとしてみて、具体的なさまざまな事柄を、あまりにも忘れてしまっていることに驚く。自分の書いた文章を読み返して初めて思い出すことが、何とたくさんあることか。
 消えていくのだ。
 私の記憶から。あるいは、私の生活から。
 それはもう、仕方のないことなのだと、私は知っている。ムムのいない、新しい生活が既に始まってしまっている以上は。忘れてしまうこと・嘆かないことを、ムムに申し訳なく思う気持ちがないわけではない。だが、人生にも猫生にも、必ず別れはある。時間が不可逆的なものである以上、そこに新しいものを積み上げていくことはできても、過ぎ去ってしまったものを追いかけることはできないのだ。
 ただ、季節だけが約束のままに繰り返されていく。
 一週間前には一片の白も見当たらなったクチナシの茂みが、時至って、一斉に純白の花弁を溢れるように咲きこぼす。花を愛でるためなら、人は立ち止まっていい。
 
 
 眠りにつく時、私は枕の右側を広めに空ける。灯りを消すと、ほどなくダメが現れて、そこに寝場所を定める。
 それまで違う部屋で眠っていても、必ず彼は来る。
 二、三日前、私は就寝したとき、ダメがどの部屋にいるのか、見つけられずにいた。
「寝るよ、ダメちゃん。」
 布団の中から呼びかけて、暗がりの中で目を閉じた。そうして、眠りに落ちたか落ちないかという時。
 猫が水を飲む音がした。
 水音が止むと、今度は微かな足音が聞こえ、やがて猫のシルエットが、私の枕の横に音もなく座り込んだ。
「来たね、ダメちゃん。」
 ダメは私の枕に顎を乗せて、しばらくの間、私の寝顔を眺めていたような気がする。それから、いつもどおり、頭を私の足の方に向けて、横寝の体勢になった。
 ダメは昔から、私にべったりの猫であるが、このところ、その密着度もしくは依存度が、以前より高くなってきているように感じる。
 いや。密着と言うと、誤解を招くかもしれない。彼は「抱っこ」や「お膝」を好む猫ではない。スキンシップが大好きというわけでもない。隙を見ては私の膝に飛び乗って腹を出すアタゴロウの甘え方と、彼のそれとは、似て非なるものだ。
 どう表現したものか。
 彼が私を見つめ、自分に対するアクションを求めてくるときの眼差しは、それよりもずっと強い、メッセージ性のようなものを秘めている。
 敢えて言うなら、
(ぼくが心を寄せるのは、世界中であなただけですよ。)
とでも、言いたげに見えるのだ。
 言い過ぎかもしれない。あるいは、単なる私の思い上がりかもしれない。
 アタゴロウが、いるじゃないか。
 確かに、二匹の仲は良い。しじゅう一つのクッションの上でくっつき合って寝ているし、どちらかが目を覚ますと、いつでも舐め合いを始める。互いの頭や首筋を舐め合う、その光景は、ムムのときよりむしろ頻繁に見られるほどだ。
 だが。
 同時にそれは、ムムの時とは決定的に違う光景であることを、私は知っている。
 ダメとアタゴロウ。その関係は、決して対等ではない。
 甘えるアタゴロウと、甘えさせるダメ。ダメから見て、アタゴロウはいくつになっても子どもなのだろう。それはむしろ、ダメの限りない優しさの表現形である。
 もちろん、ダメが一方的に与える側で、アタゴロウの存在を必要としていないとは思わない。だが、敢えて断言する。ダメとムムとの関係は、こうではなかった。
 互いに、同じように求めあっていた。
 少なくとも、私にはそのように見えた。
 去勢・避妊を済ませた雄と雌。発情しない、生殖につながらない関係だからといって、二匹の間に「伴侶」という意識がなかったと、どうして言い切ることができるだろう。
(ぼくが心を寄せるのは、あなただけですよ。)
 彼が私に向ける強い眼差しが、ムムという「伴侶」を失ったことと無関係であるとは、とうてい思えない。もしかしたら、ムムを失った痛手は、私などより彼にとって、あまりにも大きいものであったのかもしれない。
 ダメにぴったりと体をくっつけ、時には乗りかかって甘えるアタゴロウ。それを黙って受け入れながら、時に優しく、この“大きな子ども”を舐めているダメ。それを見ていると、切なさに胸ふたがれる思いがする。
 彼のあの眼差しを、私はどう受け止めたらいいのだろう。
 
 
 別れを受け入れる、ということについて、考えている。
 それは、諦めることだろうか。
 再会への希望を捨てること。一緒に過ごした日々が、もう二度と戻らないということを、自分に認めさせること。
 そして、忘れること。
 人も猫も同じだ。愛する者と引き裂かれ、どれほど悲嘆にくれようと、体は生きることを欲し、生きることは「生活」を求める。時間と社会は容赦なく、人をこれまでの生活に引き戻していく。
 私は仕事に行き、友人や同僚と交流し、趣味や娯楽を求める。
 猫だって同じだ。食べ、眠り、遊ぶ。ただ人間と違って、仕事に行ったり、社会の中で多くの他者と交わったりする必要がないだけだ。
 別れとは、それまで当たり前のように続いていた他者との関係が、突然、プツリと断ち切られることに他ならない。そして、その境目には、決して超えることのできない、高い壁が立ちはだかる。
 日常に戻り、生きていくために、生活を再開する。新しい生活を積み重ねる中で、過ぎ去った日々を忘れていく。
 だが、別れとは、そうした日常の営みの中に、そんなに簡単に埋もれてしまうものなのだろうか。
 別れを受け入れるということは、つまるところ、日常の中に、別れのもたらした痛手を埋没させることなのか。
 違う気がする。
 忘れたからといって、運命という壁に隔てられたその相手が、不必要であったというわけではない。生きるために、必要を不必要に変えたのだ。その相手の存在を介さずに進める道を選び直した、そこにはやはり、何らかの能動的な、決意のようなものがあるはずだ。
 それでも喪失は喪失であり、別れとは即ち、人生あるいは猫生における喪失である。そして喪失とは、失ったまま決して埋め合わされることのないものだ。
 私にとって、いやむしろ、ダメにとって、ムムの死は、他の何をもってしても埋められない、深く大きな喪失だ。他の猫をあてがえば淋しくないだろう、などと考えるのは、あまりにも猫の感性を低く見積もり過ぎている。だが、そんな彼が、ムムを失った痛手を乗り越えることができないと考えるのもまた、彼の精神のたくましさを見くびっている。
 思うに、別れを受け入れるとは、喪失を喪失として認めることではないか。
 百万の幸せをもってしても、たった一つの喪失を埋められない。それが別れだ。だが、埋められない喪失を抱えていても、生きていくことはできる。幸せになることはできる。
「彼女はいつも、あなたのそばにいますよ。」
 人は言う。
 否。
 彼女がそばにいるのではない。私の、そしてダメのそばにあるのは、彼女の「喪失」だ。日々の生活から彼女の存在が抜け落ちた後の、そのぽっかりと空いた底なしの穴だ。
 そして、喪失はただ喪失であって、それ以外の何物でもない。
 それを生々しい苦痛と捉えるのか。澄明な悲しみとして胸に秘めるのか。それとも、美しく楽しい思い出として、記憶の中に輝かせるのか。
 表現形は、どうであってもいい。
 愛する者と、もう二度と、相まみえることはないという事実。一緒に過ごした日々が再現されることは、決して有り得ない、という現実。
 その喪失と向き合うことで、別れは完成する。
 そしてそれは、愛そのものの完結でもある、と思いたがるのは、あまりにも感傷的すぎるだろうか。


 ムムが亡くなった日の夜。
 ダメは彼女の遺体に接して、ひたすら怒っていた。
 なぜ怒るのだろう、何に怒っているのだろう、と、その時、私は不思議に思った。だが、もしかしたら、あの時、彼はただ、突然過ぎる悲劇に、自分の感情をどう表現したら良いか、分からなかっただけなのかもしれない。
 ムムが我が家に来た時、ダメは四歳半。人間に換算して三十歳前後といったところか。
 ムムが亡くなった時、ダメは七歳と四ヶ月。人間にして四十代半ばである。二匹が一緒に過ごした三年足らずの年月は、同じく十二年くらいという計算になる。
 あまりにも短い、結婚生活だったね――。
 今、私は、ひたすら彼に申し訳なく思う。
 ごめんね、ダメちゃん。君の大切な伴侶を、死なせてしまって。
 君に、そんなにも深い喪失を、与えてしまって。
 あの後、私は、どうすればよかったのだろう。
 彼の新しい相棒に、雌ではなく雄を選んだのは、「ダメちゃんのヨメはムムだ」という、私の勝手な感傷に過ぎない。 だが彼のためには、本当は、「後添い」を見つけてあげるべきだったのだろうか。
 アタゴロウがムムの代わりにならないのは、彼が雄だからか。あるいは、年齢差の問題なのか。
 それともやはり、どんな猫であっても、決してムムの代わりにはならない、ということなのか。
 ダメとムムの間に、そんな美しい夫婦愛の物語を思い描くのは、私という人間の、いかにも人間らしい空想に過ぎないのだろうか。私がダメの心の中を推し量ろうとする行為は、どこまでが理解で、どこからが人間の理屈の押しつけなのだろう。
 分からない。
 それを知るすべは、ない。
 だから、今はただ、彼の眼差しが発するメッセージを、感性のままに受け止めたいと思う。彼が私に信頼と愛情を寄せてくれるなら、私もそっくり同じ、信頼と愛情だけを返したいと思う。
 もし、彼が、人間と全く同じ感覚でムムの死を受け止めていたとしたなら、最愛の伴侶を失った後の、彼の「余生」は、あまりにも長い。それでも、彼は、ムムのいない生活を、静かに淡々と歩き出しているのだから。彼を慕う若い猫を思いやることで、彼は彼の新しい幸せの形を、確かに自分のものにしているのだから。
 愛情深く優しいダメちゃん。
 また季節が巡って、来年もクチナシの花が咲いたら、一緒にムムのことを思い出そうね。
 君と私とアタゴロウと。みんなで過ごす、穏やかで楽しい日々の合間に。
 ムムのいない、ぽっかりと空いた喪失の穴を、他の何かで埋め合わせようとしない。それが私たちの、ムムへの愛情の形なんだよね。
 ムム。
 私の可愛いムム。愛するムム。
 生きている私たちには、これからも積み重なる日々があって、その時の流れの中で、あなたとの日々を忘れない、という約束は、私にはできない。
 だけど、私は決して忘れない。私の日々の中に、あなたが「いない」ということを。
 ごめんね、ムム。薄情な姑を許してね。
 
 
 でも、本当は。
 本当は、本当には、まだあなたとの別れを、受入れ切れていないのかもしれない。
 私も、ダメも。
 だって、まだ、さよならが言えない。
 
 
 だから、カッコつけて、ありがとう、とだけ、言わせて下さい。
 あなたと出会えてよかった。
 私の愛しいムム。誰よりも優しいダメちゃんの、誰よりも可愛いお嫁さん。