往く春を惜しむ

 

  
  
 昨日はアタゴロウの去勢手術の日であった。
 この原稿は、本当は、彼の手術の前に掲載しようと思っていたものである。が、実際に書き起こす前に、既に「その日」はやってきて過ぎ去り、私はエリザベスカラーをつけた彼を横目に、この原稿を書いている。
 予定が早まってしまったためである。
 彼の手術は、4月の3連休、つまり、次週にしようという心づもりであった。だが、先週に入ったころ、もう待てない、と、判断した。
 気がついたら、しつこいチビを鬱陶しがるダメの声が、本気の嫌悪感を露わにした唸り声に変わっていた。
 サークルから出して以来、しじゅうダメの首周りに跳び乗ろうとしては取っ組み合いを仕掛けるアタであったが、その攻撃が、いつの間にか、正面や横からではなく、背後からに変わっていた。(どのみち一瞬で振り落とされるので、傍目にはロデオをやっているようにしか見えないのだが。)
 嫌がるダメの唸り声は、喧嘩のときばかりではない。仲良く一緒のクッションの上で昼寝する図――だが、ある日、何気なくその様子を覗き込むと、アタは寝そべるダメの背後から、その首筋を噛んでいるのだった。
 ついに、不埒な行為が始まったか…。
 さすがの私も、覚悟せざるを得ない状況に追い込まれた。
 そして。
 それでもぐずぐずする私に、その決断をさせたのは、たまたま抱き上げたアタの股間に見た「それ」であった。
 勃起していたのだ。
 月曜日の夜だった、と記憶している。
 
 
 抱き上げるたび、重くなる。
 一回りも、二回りも、どんどん大きくなっていく。
 しっぽも太くなり、付け根がしっかりした立派な尾になってきた。
 そして、体つきが、がっしりとしてきた。
 明らかに、ムムの時とは違うのだ。外目にも骨組みを感じさせる、逞しさがある。
 いつの間にか、雄猫の体になっていたのだ。
 
 
 はじめに断わっておくが、私とて、飼い猫・地域猫の避妊・去勢に批判的な考えを持っているわけではない。
 それでも、自分の猫にそれを施すとなると、やはり抵抗感を覚えるのである。
 ムムの時は、本当に、涙が出そうなほど悲しかった。
 それは、彼女に母になってほしいと願ったからではない。
 すくすくと育っている健康な仔猫。その傷一つない腹を切り裂くということに、恐ろしいほどの罪深さを感じたからだ。
 だが、雄猫の場合、開腹手術は必要ない。もっと簡単だと聞く。
 であるから。
 アタゴロウの去勢手術には、ムムの時に感じたような恐ろしさは、感じなくてもよいはずだった。
 が。
 自分でも驚くほど、私はそれを、「嫌だ」と感じた。
 マリモさんが可愛らしいからではない。
 アタゴロウにワイルドな雄猫に育ってほしいと願ったわけでもない。
 何であろう。私はそこに、何らかの「喪失」を見出したのだ。
 もっと感傷的に言えば、あたかも、それが彼の少年時代の終わりを意味するかのように、感じたからだった。
 
 

  
  
 繰り返すが、私は避妊・去勢を、意義のあることだと考えている。
 だがやはり、生殖行為とは、突き詰めれば生きとし生けるものの「存在意義」とさえ言えるもので、そこに手を加えるのは、本来あってはならない「罪」だという根本の考え方が、否定されるわけではない。
 地域猫の避妊・去勢をすすめている保護団体の方々だって、別に、地球上から猫を抹殺したくてやっているわけではない。生まれてくる仔猫や母猫の悲惨な前途を憂いて、彼等の苦しみのより少ない道、敢えて言うなら、より軽い罪を選択しているだけのことだ。
 罪に罰があるなら、罰せられるべきはむしろ、その「罪」を引き受けることを拒否し、猫たちを悲惨な末路へと導いた人間の方である、と思う。
 だがいずれにしても、避妊・去勢は、つまるところ人間の都合である。
 猫という動物が、人間社会の中に組み込まれていく過程で、捨てざるを得ない野性の一つ。
 大自然の中で野性のままに生きる猫と、人間社会の中で保護されて生きて行く猫と。そのどちらがより幸せなのか、私には分からない。
 だが少なくとも、ここは手つかずの自然環境ではない。都市であれ郊外であれ、人間が管理する環境の中で、人間の保護なしで生きて行く猫の道は険しい。そこに生まれおちた猫にとって、ある種の野性を捨てることは、自らの命を全うするための代償である。
 それが、種の保存という生命の大命題と、完全に相容れないものであったとしても。
 
 
 そんなふうに考えていくと、仔猫や地域猫が、避妊・去勢手術を受けることは、いわばその猫が「人間のものになる」行為そのものであるかのように、私には思えてならないのだ。
 人と猫の関係に限らない。人と人との関係においてさえ、誰かのものになるということは、保護や愛情の代償として、何らかの拘束を受けることであり、一部の主体性の喪失に他ならない。
 自由と主体性の喪失。とはいえ、人間同士の関係なら、それは一応、回復可能なものではある。当人に力と勇気さえあれば。
 だが、猫は。
 失われた生殖能力は、元には戻らない。自由に、主体的に生きることはできるだろうが、彼等が「人間のものになった」という事実は消えない。
 避妊・去勢手術を受けた猫はみな、広い意味で「人間の猫」である。自らの命を全うする代償に、子孫を持つ可能性を断たれた猫である。
 それが、必ずしも不幸なことだとは、思わない。
 だが、後戻りはない。喪失は回復されない。
 
 
 もちろん、アタゴロウを野性に戻すつもりは、さらさらない。我が家の猫として終生飼育することを誓約して、リトルキャッツさんから彼を貰い受けた。
 だから彼にとって、今更、去勢手術を受けたからとて、自由だ主体性だという問題は、そもそも埒外なはずである。
 それでも。
 敢えて言うなら、可能性、ということだろうか。
 人間の子どもも同じだ。幼児は、無限の可能性を秘めている。実際には、生まれおちた環境に由来する制約は、多々、あるはずなのだが、その小さな手の中の「可能性」を否定する者はいない。
 だが、大人になるにつれ、彼の可能性は、ひとつずつ、その扉を閉ざしていく。
 様々な社会的制約との葛藤の中で。
 大人になることは、力と自由を得ることだ。それと同時に、別の自由と、可能性を失うことだ。
 私がアタゴロウに見ているのは、そんな感傷なのかもしれない。
 ふわふわの愛らしい仔猫から、逞しい雄猫へと成長していくアタゴロウ。去勢手術は、そんな彼が、少年から大人になる「儀式」であるように思えてならないのだ。
 人間社会の中で、人間の猫として、人間とともに暮らしていくことの、確定行為。
 野性を捨てることで、自らの命の保障と安全を得るという、契約行為。
 大人になるということは、何と生々しい、喪失の傷を伴うものであることか。
 猫も。そして、人も。
 
 

 
 
 大和和紀氏の漫画「あさきゆめみし」に、元服から5年ほど後であろうか、まだ若い光源氏六条御息所との、なれそめの場面が描かれている。「源氏物語」にはこのくだりが欠落しているはずなので、これは大和氏自身の創意によるものであろう。
 六条御息所への源氏の求愛は、誰もが知るとおり、藤壺女御への叶わぬ恋の転嫁である。美貌・才智・血筋とも、藤壺と互角に張り合える「対抗馬」として、源氏が六条を選んだのは明らかで、そこに若い彼の未熟さと驕りが透けて見える。
 対して、六条が若さと権勢に華やぐ源氏に見出すのは、東宮妃として時めいていた、彼女の眩しい青春時代の残照である。
 御簾越しに言葉を交わす二人。ふと、源氏の前の灯の大殿油が切れ、火を点け直そうとした女房に、源氏は「白氏文集」を引用して粋な言葉をかける。
「そのままにしておおきなさい。今宵は月が明るい。『燭火を背けてはともに憐む深夜の月』と言いますからね。」
 御簾の中の六条は、思わずつりこまれて、対の句を口にする。
「『花を踏んでは同じく惜しむ少年の春』。」
 そのやりとりに、源氏は手ごたえを感じるのである。
 やがて、六条は源氏を本気で恋するようになり、二人は結ばれるのだが、「互角」の恋人を得てさえ、なお、源氏の藤壺への思いは止まない。恋に代償のないことを悟った彼は、改めて、大人になったことで失ったものの大きさを思い知るのである。
 大和氏は、やるせない思いを胸に月明かりに濡れる源氏の絵に添えて、この詩句を反芻しつつ、「あさきゆめみし」の第二章を結んでいる。
 
 
 花を踏んでは同じく惜しむ少年の春