五年に一度の決断


 
 かつて、友人さくらは、職場で、野良のお婆さん猫の面倒を見ていた。
 裏庭にケージを据え、寒い冬には、発泡スチロール製のベッドに湯たんぽ。療法食のキャットフードを食べ、腎臓病やら不整脈やらで獣医の診療まで受けていたその三毛さんは、老いてなお矍鑠たる鉄火婆さんであると同時に、
「ほら、爪研いで。」
と、さくらが爪とぎを差し出すと、その場で前足をかけてカリカリやるという、高度な家猫芸の持ち主でもあった。
 そのころ、さくらは、その三毛さんの話になると、よくこんなことを言っていた。
「今、猫の国勢調査があったら、あの子は迷わず、『職業・飼い猫』にチェックするわよね。」
 今年はその国勢調査の年である。人間の国勢調査と猫の国勢調査が同年であるのかは定かではないが、前回の(人間の)国勢調査の翌年、三毛さんはさくらの腕の中で静かに息を引き取った。享年二十一歳と噂される、立派な大往生であった。
「思えば、幸せな猫生よね。若いころは野良で好き放題して、年取ったら飼い猫まがいの生活で、安楽な余生を送ったんだから。」
 縄張りに侵入してきた若い雄猫の、女子なら赤面すべき男の急所に噛みついて撃退したという武勇伝を持つ野良婆さんが、晩年に至り、いかにしてそんな愛らしい飼い猫モドキに変身したのか。これがさくらマジックなんだろうか。私の後ろを小走りで駆け抜ける半野良娘を横目に、私は微かな虚しさを噛みしめる。
 その我が家の国勢調査であるが、どうやら家族の人数に猫は数えてはいけないらしいと思われたので、前回から世帯人数に変更は生じなかった。当然、猫どもの職業も、未記入のまま終わった。
 
 
 玉ちゃんが我が家に来たのは、昨年の十月十日である。
 あれから一年余り。
 一歳を過ぎ、すっかり大人になった玉ちゃんは、
(年頃になって、けっこう綺麗になった…。)
と、私は思うのだが、やはり、それは、親の欲目なのかもしれない。
 シャム系ではなかったようで、残念ながら、柄に変更はなかった。このため、今でも、「模様はアレ」なのだが、顔の造作自体はそんなに悪くないのではないかと思う。
 が。
 確認するすべがない。
 誰か他の人に見てもらって感想を聞いてみたいのだが、忙しさにかまけて部屋の片付けを怠っていることもあり、このところ、来客がぱったりと途絶えている。いや、たとえ誰か来てくれたところで、見える範囲に玉ちゃんが現れる確率は、一千万分の一くらいであろう。
 しかも、私の言う「顔の造作自体」の良し悪しは、至近距離で見ないとジャッジできないのである。親の欲目でバイアスがかかった私の目でさえ、遠目に見る玉ちゃんは、模様のアレさばかりがやたらと目につく。彼女は接近戦でしか勝負できないオンナなのだ。
 加えて。
 彼女は、病的なほどに写真がキライである。私がカメラを取り出すと、一目散に逃げる。遠くからズームで撮ろうとしても、気配を察して逃げるのである。
 仕方なく、スマホで何とか撮ってみようと試みるのだが(スマホの場合、ただスマホをいじっているだけなのか、カメラを使おうとしているのか、瞬時には判別がつかないため、逃げる側に一瞬のスキが生じる)、私のスマホはズームにするとピンボケするし、暗いとなおさらボケボケになる。玉音が油断しているのは、猫たちの夕食の後か、私の寝起きであるから、シャッターチャンスはあっても暗すぎてはっきり写らない。冒頭の写真はそうやって撮った朝の玉ちゃんであるが、背景が暗いのは、まだカーテンを開けていないからである。これとて、ピンボケであることに変わりはないのであるが、これまで撮った写真の中で、玉ちゃんが「わりと美猫かも」と、一瞬でも思える写真が、これ一枚しかなかったというのは、何とも情けない話である。
「せっかく、可愛く撮ってあげようとしてるのに!」
 私は不満をぶちまけるが、当の玉音はどこ吹く風。
 仔猫の頃は、そんなに嫌がらずに写真を撮らせてくれたのに。
「だって、いつもブスに撮るんだもん。もう、写真なんかイヤだからね。」 
 案外、その辺りが、彼女の言い分なのかもしれない。年頃の娘には、ありがちな話である。
 
 

 
 
 そうは言っても、驚くなかれ、私は玉ちゃんに触ることはできるのである。
 しかも玉ちゃんは、どうやら、撫でられるのが、嫌いではないらしいのだ。
 頭上から手を出されると怯える玉ちゃんに、先に手の匂いを嗅がせるというワザを身につけてから、玉ちゃんは私に、顎の下を撫でさせるようになった。胴体はそれ以前から、通りすがりにさらりと撫でたりしていたのだが、下から手を近付けられるようになると、ほどなく、三回に一回くらいは、上から手を出しても逃げなくなった。そして、頭を撫でさせるようになった。
 私は毎晩、お風呂に入る前に歯を磨く。玉ちゃんは、私がお風呂に入っている間、洗面所で待機していたりするのだが(そして、私が風呂から上がると逃げる)、いつの頃からか、私が歯を磨き始めると、洗面所の入口に現れるようになった。
 どう考えても、甘えに来ているとしか思えない。
 なので、撫でた。
 玉ちゃんは、ちょっとばかり撫でさせると、逃げた。いや、逃げたと見せかけて、食卓の椅子の下で待っていた。
 手を伸ばして背中を撫でてやると、やがて、ゴロンをした。
 明らかに、撫でてもらうことを喜んでいるのである。
 こうして、私のお風呂前の「玉ちゃん撫で撫でタイム」が定着した。
 と、ここまで書くと、
「ずいぶん馴れたじゃないの」
と、普通は思うことだろう。
 だが。
 そんなに一筋縄ではいかないのが、玉ちゃんなのだ。
 玉ちゃんが「撫でて」と、洗面所の入口に来る。私がヨシヨシと撫でてやると、玉ちゃんは小走りになって、食卓の椅子の下に移動する。
 この、椅子の下というのが、ミソなのだ。
 私は、手しか入らない。体は近付くことができないのである。
 やむを得ず、床に座り、手を伸ばして玉ちゃんを撫でる。これが結構、体勢的に苦しい。
 それでも、玉ちゃん自身は気持ちが良いらしく、やがてゴロンと横寝になる。だが、私がさらに腕を伸ばして、その横腹を撫でていると。
 玉ちゃんは、椅子の下に敷かれたカーペットに爪を立て、水平方向の懸垂で、横寝になったまま、食卓の下で移動を始めるのである。
 やむを得ず、自分も膝歩きで移動し、なおも撫でてやろうとする私。
 玉ちゃんの懸垂移動は、意外に速い。あっという間に、食卓の反対側の椅子の下に移動し、そこで起き上がって、今度は、近くにある安楽椅子の背もたれの下に移動してしまう。
 もう、私の手は届かない。
「あ、そう。もういいのね。」
 私は諦めて、洗面所に戻る。するとまた、玉ちゃんが
「撫でて」
と、覗きに来る。この繰り返し。
 そう。
 玉ちゃんは、撫でさせはするが、私の体が近付くことは許さないのである。従って、私は腕を一生懸命伸ばさないと、彼女を撫でることができないのだ。
 これは「馴れた」うちに入るのだろうか。
 こんなだから、もちろん、抱っこなんかもってのほかである。ついでに、彼女が自分から私に体を寄せてくるのは、メシの催促の時だけである。
 私は未だに、彼女にとって「しんせつなエサやりさん」に過ぎないのだ。 
 
 

  
  
 玉ちゃんは未だに、昼間は押入れにお籠りさんである。
 夕食後は、キャットタワーの上で寝ている。他の二匹のようにクッションや座布団の上で寝ているところは、ほとんど見ない。(座って休憩することはある。)
 彼女が我が家に来たのは、生後二ヶ月足らずの頃。人間にすれば三歳くらいといったところか。
 それでも未だに野良の生きざまを忘れないとは、どれだけ立派な野良母さんに、厳しく野良教育を受けたのだろう。
 だが、人間にして三歳である。そんな幼い時分から人間に飼われている猫を、普通、野良猫とは呼ばない。
 ふと、思う。
 玉ちゃんのお母さんは、玉ちゃんが人間の家の中で安楽に暮しているのを見たら、どう思うだろうか。
(娘が幸せになってよかった。)
 いや、それは、あくまで、人間の観点から見た楽観的推測だろう。
(娘が人間に捕らわれている。大丈夫だろうか。心配でたまらない。)
 まあ、そんなところが、妥当な線か。
 だが。
 もう一つ、可能性がある。お母さんは、こんなふうに考えるかもしれないのだ。
(何ということだろう。私の娘は人間に洗脳され、すっかり堕落した猫になってしまった――。)
 
 

  
 
 人間的な観点から見ると、飼い猫=貴族、野良猫=無頼者というイメージの方がしっくり来るのかもしれないが、私は、それはむしろ逆なのではないかと思う。
 野良を貫き、人間と厳しく対峙する猫の方が、猫としては貴族的なのではないか。
 なぜって。
 飼い猫と野良猫と、どちらが高い矜持を心に秘めているか。自ら恃むものを強く持っているか。
 それはやはり、野良猫の方だろう。
 だが、現実問題として、豊かで安楽な生活をしているのは飼い猫の方で、野良猫たちは、生きるか死ぬかの、厳しい猫生を強いられている。
 生粋の野良猫として高貴な血筋に生まれた玉ちゃんは、さながら、貧しさゆえに身を落とし、甘んじて飼い猫の妻となった、零落貴族の令嬢なのだ。
 だが――。
(それでも私は貴族の娘。どんな境遇にあっても、野良としての誇りは失いません。)
 彼女は密かに、心に誓う。
(人間は、猫族の敵なのだわ。人間に心を許すことは、猫としての誇りを失うこと。)
 そうやって、新しい境遇に馴染むことを拒否する令嬢は、しかし、やがては激しい葛藤に心を悩ませることになる。
 どこまでも自分のやり方を貫く強情な娘に、意外にも周囲は寛容であった。彼女の夫は貴族の生活様式などに全く興味を示さなかったが、裕福な家庭に育った若者らしく、その言動に卑しさはなく、ひたすら屈託なく明るい。この世の中で、最も居心地良く楽しいのは、経済力のある庶民階級の家庭であるということを、彼女は知らなかった。今、そのただ中に身を置いて、誇り高き貴族の令嬢は、自らの信念が揺らいでいくのを感じる。
 もしかしたら――
 そう、もしかしたら。
 今、この野良の誇りさえ捨ててしまえば、私も彼等のように、伸び伸びと幸せに暮らせるようになるのではないか。
 貧しさの中にも誇り高く美しかった、母の姿が脳裏に浮かぶ。
 とはいえ。
 このひとたち。私の夫や、家長のおじさまが、卑しく醜い者たちだろうか。
 否。
 野良の誇りが、そんなに大切なものなのか。
 人間に心を許すことは、本当に、恥ずべきことなのか。
 人間は本当に、猫族の敵なのか――。
 彼女は人間の手の匂いを嗅いだ。その人間の手が伸びて、すうっと彼女の顎を撫でた。それは意外なほどに快い、とろけるような優しい感触だった。
 
 

  
 
 先週、ダメちゃんの予防接種に行ってきた。
「大治郎くんも、もう十歳か。」
 先生は、感慨深げに言う。そしてまた、うちの子と似ている、とおっしゃる。
 そして、体重測定。
 十歳のオジサンの現在体重、6.6kg。
「あ、ヤバい。また太っちゃった。」
 どきっとしたものの、その後、シニア猫にいちばん怖いのは腎臓病だ、などという先生のご注意を聞いているうちに、うっかりダイエットさせたら、病気で痩せたんだか、ダイエットで痩せたんだか分からないよな、などと、適当な理屈を思いつき、ダイエットさせる気はすっかり失せてしまった。
 まあ、いいだろう。先生からもダイエットの指示はなかったし。
「ところで、玉音ちゃんはどうですか。馴れましたか。」
「いやあ、それが、未だに逃げられてまして…。」
 私の奥歯にものが挟まったような回答を、半ば予期していたのだろうか。先生はふふふ、と笑って、小さな声で、こうつぶやいた。
「家庭内野良か。」
 違います、という私の抗議は、しかし、声にはならなかった。根拠のない主張は説得力を欠く。腕をのばして触ることができる、それが何だろう。私がかつて、近所の公園に出没する野良さんを自分の猫にしたいと本気で思っていた頃、私は彼女を膝に乗せていたではないか。だが、それでも捕まえることはできなかった。彼女は本物の野良猫だった。 
 野良さんとは、そういうものなのだ。
 代わりに私の口から漏れたのは、こんな言葉だった。
「もうじき、玉音もワクチンですよね。でも、どうやって捕獲するか、今から悩みのタネなんです――。」
 
 
「おじさん、手伝いましょうか?」
「いや、いい。それより、そっち側から、シフトキーを押してもらえないか。パスワードに大文字が混じっているようだ。」
 遡ること約一ヶ月。大治郎は、慣れないパソコンの画面とにらめっこしていた。
「ふむ。どうやら、家族の頭数に人間は含めないようだ。では、我が家は三匹だな。」
「男女の内訳はないんですか?」
「それは次の項目らしい。」
 言いながら、器用に「次へ」をクリックして、二頁目の質問に進む。
「面白いですね。ぼく、生まれてはじめてです。」
「私だって二回目だ。五年に一度だからな。前回はOCR用紙だったし。」
 愛宕朗は興味深げに、質問項目を読みあげた。
「持家・間借りの別ですって。ここって、どっちになるんです?」
「微妙なところだが…家主を家族に含めないとなると、やはり間借りになるんだろうな。」
「家賃は?」
「腹モフ週三回以上五回未満、まあ、この辺じゃないか。」
「いや、おじさんとぼくと、両方合わせたら、五回以上十回未満くらいでしょう。」
「案外、ぼってるな、あの家主。」
 二匹は、顔を見合わせて笑った。
「次は――この一週間に、仕事をしましたか、ですって。」
「してるともさ。」
「で、職業欄は?」
「『飼い猫』だ。三匹とも。」
 そのころ、玉ちゃんは、いつもどおり押入れの中で熟睡中であった。
 貴族の生まれである彼女は、国勢調査などというものの存在を、知らなかったようである。