年末墓参

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(本日のダメ)



 

 

 道路の落葉を掃く人がいる。

「大変ですな。風もあるし。」

「いやもう。向こうから吹くからね。」

 近くに停めた車の主が話しかけている。二人は知り合いなのだろう。

「いつもなら、今頃はもう散り終わっているんだけどねえ。」

 街路樹の公孫樹には、まだ黄色い葉が半分ほど残っている。そういえば、昨年は、もっと残り少なかっただろうか。私は寒空に聳える梢をちらりと振り仰ぎながら、黙ってその横を行き過ぎる。片手に、コーヒーを満たした蓋つきのステンレスマグを持って。

 

 

 都内某所。曹洞宗の小さなお寺がある。そこに、私の恩師が眠っている。

(先生、こんにちは。)

 毎年末、恩師の墓を訪れるのが、私の習慣になっている。

 大学時代のゼミの指導教授は、当時から難病を患っていた。とはいえ、普通に講義も校務もこなしていたし、学生と一緒に酒も飲んだ。煙草も大好きで、研究室の書棚にぎっしりと並んだ書籍は、煙草のヤニで、一様にセピアがかった色に染まっていた。

 恩師が亡くなったのは、卒業して十年ほども経った頃だろうか。

 私は、友人からのメールでそれを知った。

「S先生って、猫山ちゃんの恩師じゃないの?死んじゃったよ。」

 友人は、新聞の訃報欄でたまたまそれを目にしたらしい。あまりに簡潔な第一報の後、確かインターネットで自らそれを確認し、その後、ゼミの友人から通夜の連絡が入った。

 通夜は大雨だった。それだけは覚えている。

 恩師を失って、私が感じたのは、悲しみよりも後悔だった。

(なぜ、こんなに御無沙汰をしてしまったのだろう。)

 話したいことが、たくさんあったのに。

 メールをくれた友人は、間違いなく恩師と気が合うと私が確信した人だった。だから、いずれは紹介して、皆で一緒に飲もうと、勝手に計画していたのに。

 いつかは、と思っていた。だが、その「いつか」は、永遠に来ないのだ。

 仕事の話、趣味の話、時事問題。職場の人とも、女友達とも違う。別の視点で、別の距離感で、先生と分かち合いたいと思っていた様々な話題が、その時を限りに、すべて封印されてしまったように思えた。

 死とは、とりかえしのつかないものなのだ、という当たり前のことを、私はこのとき、はじめて知ったのかもしれない。

 それだから、だろうか。

 煙草のヤニに染まった研究室を訪れる代わりに、私は恩師のお墓に出向く。暮れていく年に思いを巡らし、気が付いたことをとりとめもなく恩師に報告する。もちろん、墓は答えない。

 乾いた冬空を見上げ、同じ後悔を繰り返すために、私はここに来るのかもしれない。それでもちっとも学習しない私を、恩師はきっと苦笑いしながら眺めているのだろう。

 

 

 私に「書くこと」の楽しさを教えてくれた恩人が、生涯に三人いる。

 私の読書感想文にはじめて目を留めてくれた、小学校二年の担任の先生。国語教育、特に作文(生活文)に力を入れ、書き方の基本を教えてくれた、小学校五、六年の担任の先生。そして、大学三年から四年でお世話になったゼミの指導教授だ。

 その指導教授の教育法は、もしかしたら、学部の中でも異色だったのかもしれない。とにかく「書かせる」先生だった。何よりもまず、論文の書き方、スタイルをたたきこみ、さらに、文体にも論文らしいクオリティを求めてくる人だった。

 実際、先生の書いた論文は、読み易くも格調高く、その文章の美しさにおいて水際立っていた。何人もの研究者が寄稿した論文集などを読むと、その差は歴然だったのを覚えている。

 学生は机上の空論をやれ、というのが、先生の持論だった。当時、学部の教授陣には、フィールドワークを重視する人が多かったから、その点においても、大学という研究者のヒエラルキーの中で、先生自身、ちょっとした異端児だったのではないか。

 先生は、私達が二年生のときに、一年間のサバティカル(研究休暇)を取っていたので、三年で専攻を決め、サブゼミの顔合わせをした際に、先生の人となりを知っている学生は一人もいなかった。同じ理由で、本ゼミ生(四年生)もいなかったから、先生が開口一番、

「ここに集まっている皆さんは、多かれ少なかれ変わり者だと思います。何しろ、去年、私はいなかったのですから。」

と、挨拶したのは、的を射た発言であったと言っていい。私もその「変わり者」であったわけで、また、そう発言した先生その人も、同じく「変わり者」であったわけだ。

 それにしても、全く情報のないゼミに入るというのは、学生にとっては一種のギャンブルである。その点、私達変わり者軍団は、賭けに負けたと言ってもいいかもしれない。それからの二年間、夏休みも春休みも「レポート」と称して論文を一本ずつ書かされ、さらに、休み中の合宿と休み明けの最初のゼミで、その論文の内容をプレゼンしなければいけないという、他ゼミに比べ、きっちりと厳しい執筆(?)生活が待っていたのだから。

 だが、今にして思えば、それは楽しい学生時代だった。今書いているような駄文と違い、論文書きは苦しい。それでも、書き上げること、即ち、文章という手段で何かひとつのワールドを構築することの充実感は、それだけである種の陶酔をもたらす。そんな経験ができたのも、卒業論文という無責任きわまりない名目のもと、先生の言う「机上の空論」を思い切りやらせてもらえたからに違いない。

 その後の人生で、そんな機会は決してないということを、社会人になって、ようやく私は悟ったものである。

 

 

 ステンレスマグの蓋を開け、コンビニで買ったコーヒーを墓前に供える。漂うのは線香の香りではなく、コーヒーの香りだ。

(先生、ホットコーヒーは久しぶりでしょ。)

 墓前には、すでに缶ビールが備えてある。お家の方だろうか。よくお解りの方だ、と、私はひそかに苦笑する。

 さて。

 何を報告しようか。

(今年は、何もないな…。)

 いつも、自分の書いた「文章」に関することは、必ず報告している。まあ、たいていは仕事のマニュアルを作ったとか、その程度のことなのだが。もちろん、このブログのことも話しているが、残念ながら今年はほとんど更新していない。

 マニュアルは作っていないけど、研修資料は作った。私は今、職場でいちばんの古株なので、時々、職場内研修で講師をやる。その資料作りも好きだし、研修を企画することも好きだ。さらに、気が付いたら、係内限定とはいえ、講師をやること自体にもあまり抵抗がなくなっていた。

 いくら内々の小規模なものでも、研修講師を頼まれると嫌がる人が多いのに、私は断らないので、上司には感謝されているらしい。おかげで、職場では好き放題やらせてもらっている。

(でも、昇任試験は断わりました。)

 まあ、それは、ずっと断り続けているんだけどね。

 リーダーになりたいとは全く思わない。そんな器ではないし、臆病で人見知りだから、そんな立場に立たされたら、多分、ストレスで体を壊す。私の理想は、自分がリーダーになることより、次代のリーダーを育てる人になることだ。

(私、先生みたいになりたいんです。)

 突然ひらめいた自分の心の声に、自分ではっとする。

 先生は、講義が好きだと言っていた。それも、大教室で大勢の学生を相手に講義するのが快感だと。

 研究者というものは、研究だけが好きで、先生稼業は生活費を稼ぐためにしぶしぶやっているのだと思い込んでいた私は、心底驚いたものである。だが先生は、“その中にも、シャイでティミッドな自分もいるのだ”ということも、おっしゃっていた。

 ここで「ティミッド」(timid=臆病な、内気な)という英語が出てくるあたりが、さすがイギリスに留学した人なのだが、その「シャイでティミッド」と「講義が好き」のつながりが、当時の私には全く分からなかった。だが、それが両立するものだということが、今の私にはよく分かる。私にはまだ、大教室で講義するほどの度胸はないとはいえ。

(私、ひょっとして、先生に似てきたのかな…。)

 教授になりたくない、いつまでも助教授(今で言う准教授)のままでいたい、と言っていた先生。夏休みも春休みも学生を遊ばせようとせず、そうして集まってきた何十本もの拙い論文に、丁寧に目を通し、朱を入れていた先生。学生が、そして教育活動が好きだった先生。

 そういえば、私は、先生の逝った歳を越えたのだろうか。

 何故とはなしに、うっすらと涙が出る。

 今なら。

 そう、今なら、もっと色々な話が、もっと深い話ができるのに。

 大学生なんてほんの子どもだ。学生時代の私は、当たり前だが、全然先生に追い付いていなかった。あまりにも物を知らなくて、薄っぺらで、ついでにお酒も飲めなかった。

(飲みたいねえ、先生。)

 お酒を飲んで、じっくり話してみたかった。

(でももう、私も飲める盛りは過ぎちゃったけどね。)

 ふと、思う。

 先生がご存命だったら、今、いくつになられるのだろうか。

 確か、私が四年生のときに、四十歳になったと言っていたはずだ。となると――、

(あれ、じゃあ、ダメちゃんと同じくらい?)

 とんでもないところで、ダメを思い出した。

 猫と一緒にされたら、先生は怒るだろうか。いや、むしろ、内心面白がってネタにするだろう。

「猫山さんちの猫と一緒とは、感慨深いですね。俺もいよいよ出世したなと。」

 そんなことを真面目くさってしみじみと話す先生の姿が目に浮かぶ。誰にともなく、私は低く笑ってみせる。

  

  

 風は既に止んでいた。

 落葉を掃く人はいなかった。無人の車だけが、ぽつんと路上に残っていた。

 親子連れが信号を渡って来る。小さな女の子がはしゃいでいる。大晦日、こんな何もない通りを、あの親子はどこへ行くのだろう。買い物を済ませたようにも見えないけれど。

 コンビニの前を行き過ぎながら、文章を書きたい、と、ふいに思った。

 あまりにもブログを放置し過ぎだ。それは分かっている。常に、書きたいという気持ちと、時間のなさとの、せめぎ合いなのだ。

 だが、書き留めないままに、日々は無情に流れ過ぎて行く。書き留めなかったことは忘れていく。まるで何も起こらなかったかのように。そして、ネタは生ものだ。時期を過ぎてしまったら、もう書けない。

 今年だって、いろいろあったのに。

 ダメの脚の手術。(良性の脂肪種だった。)アタゴロウの尿検査。玉音の予防接種。つい最近は、毎年恒例のクリスマスパーティが我が家であって、アタゴロウがはじめて、りっぱにホスト役を務めたのだ。

 それから、夏のフェリウェイ購入と、さっさと使用を諦めたその顛末とか。

 それから…。

 それから…。

 ほら、もう忘れている。

 一日一日を大切に生きるということは、簡単そうに見えて難しい。書き留めることは、その最も手軽な実践方法でもあるはずだ。

 そう、分かっているのに。

 猫たちとの日々を大切にしたい。そう願いながらも、せわしなく流れて行く日々を、ただなすすべもなく見送るだけの私がいる。

 三人の恩師は誰も、私に「文章を簡潔に書く」という躾を施すことができなかった。その点さえ身につけておけば、このブログだって、人並みに更新ができただろうに――と、愚にもつかない言い訳を述べてみる。

 

 

 そして、今。

 大掃除を途中で投げ出して、PCを叩いている私の椅子の下に、ダメがいる。

 今度の二月で、彼は十四歳になる。すっかり老境だ。もちろん、すでによく分かっていたことなのだが、今朝、布団の上の彼の口許の白髪が喉元にまで広がっているのを見て、しみじみとそれを実感した。そして、思った。

 あと何年、彼と一緒に居られるのだろうか。

 考えたくない。

 いくら他の二匹がいるといっても、彼のいない生活など、私には考えられない。

 だが、いつか必ず、その時は来るのだ。

 とりかえしがつかない、という、あの思いはしたくない。その時、後悔しないために、私はどうしたら良いのだろう。

 いや、そんなことは不可能だ。後悔は必ず、するのだ。

 日々、「来るべき日」を予感して、覚悟を胸に秘めて暮らしていくのか。しかし、それが正しいやり方だとは、どうしても思えない。それよりは、今日のこと以外は何も考えず、日々を当たり前に生きていくことの方が、ずっと幸せに近いように、私には思えるのだ。

 そしてその日を迎え、おそらく、私は激しく後悔する。彼と一緒にできなかった、彼のためにできなかった、様々なことのために。

 もしかしたら、後悔とは、一つの弔いの形なのかもしれない。十数年前に胸を満たした私の苦い後悔が、こうして毎年、私の足を恩師の墓に向けさせているのだから。だとしたら、それは必要悪だ。

 だが――。

 ただひとつ、愛情だけは。

 愛情だけは惜しみなく、隠すことなく、彼等に注いでいきたいと思う。

 机上の空論が学生の本分なら、学生時代にそれをやり切ったからこそ、私の後悔はその苦さの中に一抹の清々しさがある。論文そのものは本当に拙いものであったけれど、そして、その後、先生に御無沙汰をしたことで、私自身は激しく後悔しているけれど、先生はそんな私を笑って見てくれているに違いないと信じられる安心感がある。

 猫飼いの本分は、猫を愛することだ。

 だからね、ダメちゃん。

 何年経っても私は未熟な飼い主だけど、愛情だけは精一杯、注ぎ切るからね。

 君の大きさ、あたたかさ、柔らかさ。それから、他猫のご飯の強奪も、ウンチ後のお尻を床に擦り付けた痕跡も、ところ構わず「エ」をすることも、そして、それらに対して私が君にする、クソじじい呼ばわりも。

 すべての普通の生活。

 何気ないできごとの全部が、君に対する愛なのだから。

 そうやって、一日一日を、大切に生きていきたい。

 

 

 あ、でも、念のため言っておくけど。

 愛情イコールご飯、ではないからね。

 ダイエットも愛のうちです。そこは心得ておくように。 

 

 

 

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そ。スマイル0円、みたいなもんさね。

 

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(本日の玉音ちゃん)