令和元年十二月
(今回設置した酸素ハウス。入口は写真左側。実際には、中のクッション部分はあと十センチほど厚みがあったと思って下さい。)
「年は越せたんだ。頑張ってくれたんですね。」
イケメン獣医師は言った。
「それでも、年は越せたのねえ。」
ドクター・ミツコも言った。
いずれの先生も、言外に「思いのほか長くもった」というニュアンスを滲ませていたように思う。
抗がん剤をやめてからの一ヶ月。あの日のことが、すでに遠い過去のように思える。怒涛のような一ヶ月間、という言葉が続きそうであるが、実際にはとても穏やかな、静かな日々だった。
その間に何があったのか、簡単に忘れてしまえるくらい。
すでに記憶は薄らいでいる。だから、今のうちに思い出せるだけ書いておく。
あくまで記録のための思い出し書きである。メモも下書きもせず、ぶっつけ本番で、なるべく時系列に沿って書くが、とりとめもなく綴る。そして、おそらく長くなる。
もし、お読みいただけるのなら、「きっと長いだけで面白くない」ことを覚悟の上、この先をお付き合いいただきたい。
最初の一週間は、多分、それがダメにとって最後の調子のいい時期だったのではないか。
十二月六日に最後の抗がん剤を打った。「やめる」宣言をしたと言っても、その日は投与しているのだから、当然、また副作用で体調が悪くなるものと覚悟したが、もとより前回の副作用からあまり立ち直っていなかったこともあって、目立ったダウンはなかった。むしろ、翌日からゆるやかに回復し、「ちゅーる」も一日七~八本くらい食べられるようになっていたのである。
もちろん、走り回れるような元気ではなかったけれど。
察するに、最後に投与したアスパラギナーゼは、効いたのである。
だったら、また続けて抗がん剤を投与すれば、再び持ち直すのでは…と、気持ちが揺らいだことは事実である。
その状態は、期待以上に長く続いた。というより、下り坂がごくごく緩やかだったため、私を一喜一憂させるような事件は起こらなかった。
おかげで、当初、危ぶみさえした“二週間”は、拍子抜けするくらいあっさりと経過した。あんなブログを書いたことが恥ずかしいな、とまで思っていた。
ただし、多分、十日くらい経ったころから、目ヤニが出始めていた。最初は気が付いた時に拭いてやれば良い程度。それがだんだん酷くなり、一番悪い時には、常に目が潤んだような状態で、一気に顔がおじいさんぽくなった。それだけが不安材料だった。
十二月十五日日曜日。
玉音をドクター・ミツコの所へ、予防接種に連れて行った。
玉音はああ見えて実は「構ってちゃん」なので、このところ私がダメにかかりっきりで放置しておいたところ、すっかり再野良化が進んでしまっていた。
だからといって、まあ、捕まえられないことはないだろうけど。
久しぶりの捕物で、私の方も緊張していた。
押入れに追い詰めたところを捕まえて引っ張り出す…という作戦は覚えていたものの、やはり緊張のせいか、手元が狂った。本来なら首の後ろの皮膚をがっちりと掴んで、決して離してはいけないものが、一度目はうまく掴めず、押入れの中で逃げられてしまったものである。
このとき。
(あ、臭い。)
悪臭が鼻を衝いた。
ともあれ、二度目には、お互い死に物狂いで頑張った挙句、何とか捕獲に成功。無事、予防接種に連れて行ったのだが。
診察台に乗せた瞬間に、先生が言った。
「あらやだ。肛門腺から漏らしちゃってる。」
それか!
道理で、いつになく臭かったわけだ。
家に帰ってから押入れを点検したが、その時点では匂いの元が分からなかった。しばらく押入れを開け放って脱臭し、夜、布団を敷こうとしたところで、匂いの元が判明した。
枕である。
あろうことか、私の枕に、バッチリ液体を噴射されていたのだった。
(よりによって、枕か…。)
救いなのはそれが、すでに歴代の猫たちの爪にやられ、ボロボロの枕だったことだ。ただ、そのへたり具合が絶妙で、私にとってはいちばん寝心地が良かったので、側生地が破れた後も、上からさらに袋型の枕カバーを被せて、無理矢理使っていたものである。
そのカバーを外して洗うことで、肛門腺の染みは落ち、匂いもしなくなったのだが、さすがに、以後もこの枕に頭を乗せる気分にはなれなかった。そこで、やむなくこれを機会に、世代交代させることにした。
とはいえ、二十年以上もの使用に耐え、私と歴代の猫たちの匂いの滲みついた古い枕は、すぐ捨ててしまうのも何だか忍びなくて、しばらく和室の隅に置かれることになる。
十二月十九日木曜日。
仕事の後、ダメの薬をもらいに行く。
二週間経ったよ。どんなもんだい!という気持ち。(別に抗がん剤をやめることを反対されたわけではないのだが。)
「どうですか?」
「ハイ、落ち着いてます。」
他に言いようがないくらい、穏やかな日々だったのだ。
「ちゅーるを一日四本くらい食べてます。あ、あと、呼吸は、もしかしたら少し苦しくなっているのかもしれないけど、ちょっと見わけがつかなくて。咳とかはしていません。」
今回は、忘れずに呼吸のことも言った。
「それはよかったです。次はお薬、何日分出しますか?」
「でも、こちらも年末年始はお休みになりますよね。」
「そうですね。なので、うーん、お正月あけてからだったら、三週間分でしょうか。」
「あ、そうですね。」
三週間くらいがちょうどいいと思った。
「それか、年内にもう一度お話をするということなら、十日分にしておきますが…」
「いえ、三週間分でいいです。」
診察ではなく、こういった「お話」だけなのだ。そのときの私の頭の中には、次回もこんなふうに、「どうですか」「落ち着いてます」と会話している光景のイメージしかなかった。もちろん、私の台詞は「落ち着いてます」ではなく「食欲が落ちてきました」とか「少し苦しそうになってきました」かもしれないのだが、いずれにしても、だからといって特に何ができるわけでもない。仮に対症療法を検討するとしても、これ以上薬を増やしたり、病院に連れてきたりすることのストレスとの天秤である。
だが、もしかしたら。
そのときも、先生の方は、彼が年を越すことはないかもしれない、と思っていたのかもしれない。
私にだって分かっていたはずだ。だが、何故か私は常に、根拠のない楽観主義者なのだ。切実な願いから生じる希望的観測、というのとも違う。要するに、目の前の事象から容易に想像できること以外、常に何も考えていないのが私なのである。
十二月二十一日土曜日。
さくら・こっこと事実上の忘年会。(名目は単なる飲み会)
例年なら我が家でクリスマスパーティをするのだが、さすがに病猫がいる時に人を呼ぶのは憚られた。さくらとこっこもそれぞれ忙しかったようだし、おそらく私に気を遣ってもくれたのだろう、クリスマスのクの字もおくびにも出さなかった。それもあったので、私が自分で近所の安い飲み屋を探し、予約していた。
(お店そのものが、いい歳をした女三人が行くようなところではなかったのだが、私がダメの医療費で懐が淋しかったため、強引に決めてしまった。一切文句を言わなかった二人には、今更ながら申し訳なかったと思っている。)
ひとしきり近況報告などが続いた後、当然のように、猫の話題になった。
私がブログ書きをサボっていたため、報告する機会を逃したのだが、実は、さくら家のやっちーは半年前、去る六月五日に逝去している。実に四半世紀ぶりに身近に猫がいない生活に突入したさくらは、ここでも「淋しい」を連呼していた。
「朝起きられない。やっちーに起こしてもらってたから。」
「甘えるんじゃない。」
ダメちゃんはじめ、うちの猫たちは私を起こさない。それは遠い昔、私がダメとの戦いに勝ったからである。顔面にハナミズを飛ばされても起きなかった、私の忍耐力の勝利というものだ。
このため、うちの猫どもは、別の意味で忍耐強くなった。朝、私が寝ている時のみならず、夕食に関しても、私が帰宅後、疲れていたり、酔っ払っていたりして「一休み」していると、その間、特に催促もせずじっと待っている。帰宅そのものが飲み会等で遅くなっても、「またか」くらいの反応である。
ただし、ダメの闘病が始まってから、私は仕事の後の飲み会は断るようにしていた。夜の外食は、必ず一度家に帰ってから出直す。ダメの「無事」を確認し、できれば先に夕食を食べさせる。投薬があるからだ。別に夕食後すぐに飲ませてはいけないわけではないのだが、当初、食べた直後に散々吐かれたので、食べたものがきちんとお腹に納まったことを確認してから薬を飲ませるようにしていたのである。
この日はさすがに時間が早すぎて夕食は帰宅後になったのだが、もとより飲み会の開始・終了が早かった上に、安いお店でお酒が薄かったことが幸いして、帰宅後につつがなく夕食と投薬を遂行することができた。
多分、このあたりから、ダメの食欲は落ちてきていたのだと思う。もう記憶が曖昧になってしまっているのだが。
一時期は一日十五本に迫る勢いで食べまくっていた「ちゅーる」も、一日三本がやっとになってしまっていた。
この時期は、強制給餌をやるべきかで、内心迷っていた。抗がん剤をやめた時点で、あとはターミナルケアなのだから、彼が嫌がることはするまいと考えていたからだ。
だが。
お腹は空いているのに、食べられない状態だと考えたら。
餓死というのは、本当に苦しいという。
いやいやでも食べさせて、少しでも体力を維持した方が、他の苦しみを押さえることができるのではないか。
そうこうしているうちに、三本が二本になり、やがて二本も厳しくなり、そしてついに、「ちゅーる」には口をつけなくなった。
ちゅーるを受付けなくなっても、彼が喜んで食べたものが、ひとつだけある。
マスカルポーネチーズである。
最初は生クリームを舐めさせていた。が、舐めるには舐めるが、大した量ではない。
クリームチーズという手もあったが、こちらはやはり、塩分が気になる。
そこで思い付いたのが、マスカルポーネ、私の分類では「塩分がなくて乳脂肪分の多いクリームチーズ」である。さらに、猫は発酵食品が好きという説も目にし(猫用の「納豆ふりかけ」という商品があったので説明を読んでみたらそう書かれていた)、生クリームより好むのではないかと思って与えてみたら、これが当たりであった。
ついでに言えば、マスカルポーネは人間にとっても扱いやすいシロモノであった。固めのクリーム状なので、量の調整がし易いし、液体の生クリームよりは日もちもする。自分の掌につけて猫の口許に持っていけるので、食べさせるのも簡単だ。
ちゅーるも食べない、サバ缶も食べない、だがマスカルポーネなら食べる。お腹は空いているようだ。となると、やはり乳製品がいいのか?というところで、あっと思った。
そうだ。その手があったじゃないか。
猫ミルクである。
と、いうわけで、自宅近くのペットショップに走ったのが、十二月二十五日水曜日。
このとき、売り場でカロリーエースを見て、それも一缶買ってみた。帰宅してさっそく試してみたところ、カロリーエースには最初から横を向かれ、猫ミルクについては、少しだが舐めてくれた。
舐めたということは、味やにおいに抵抗感は少ないのだろう。
だが、あまりにも少なすぎる。二~三回試したが、いずれもぺろりと舐める程度。結局、これをシリンジで飲ませるということで、私の中の強制給餌問題は決着した。
ところで、なぜこんなクリスマスの日に、自宅近くのペットショップに走っている時間があったかと言うと。
実は、その日は無理を言って午後休を取っていたのである。
で、なぜ休みを取ったかと言うと。
一度は返却していた酸素室を、改めて借りることにしたからだ。月曜日に電話し、翌日二十四日は仕事が忙しくて休めそうになかったので、「二十五日の午後」を指定して届けてもらうことにしていた。
酸素室を借りる決意をしたきっかけについては、残念ながらよく覚えていない。確か、何かの折に、やはり呼吸が苦しそうに見えたからではなかったか。そして、うっかりすると業者さんもお正月休みに入ってしまう、ということに気付いて、慌てて電話したのだった。
今回は、酸素濃縮機のみを借り、ハウスは手作りすることにした。
お蔵入りしていた小さなケージを組み立て、周囲にビニールを貼り、中に猫ベッドをしつらえる。組み立ては日曜日の夜に始めたのだが、予想どおり、手持ちのビニール(百均で売っている透明テーブルクロス)では足りなかった。先述のとおり、火曜日は残業必至であったため、月曜日の夜、駅前の大きめの百均に行って、ビニールと、猫ベッドの材料として、マット・クッション・膝掛け毛布を買ってきた。
が。
結論から言えば、買ってきたものでは全く足りなかった。どう組み合わせても、ふかふかの猫ベッドには程遠い。もともと家にあるものは活用しようとは思っていたのだが、自分が使っていなくて、お客様用や特別な用途のものでもなくて、できれば、捨てても惜しくないもの。大きさがちょうどいいもの。そう考えると、意外に難しい。
どうしよう。
そこで、はっと気付いた。
玉音ちゃん!グッジョブ!!
あの枕があるじゃないか。
試しにケージに入れてみると、これがピッタリである。難を言えば、真ん中が高く、周囲が低くなってしまうことで、猫ベッドだから周囲を盛り上げて寄りかかれるようにしたい。そこで次に思い出したのは、さくらがやっちーに作った猫ベッドである。
(確か、毛布を筒状に丸めて輪っかを作ったって言ってたな…)
我が家の場合は、毛布ではなくポリエステルわたの夏掛け布団である。これを縦に丸めて筒状にし、枕の周りにぐるっと巻いてみると、これもぴったりであった。
あとは、その上に、百均の(といっても税抜き四百円)膝掛け毛布を被せ、クッションを置いて完成である。マットはケージの横に置いた猫砂の段ボール箱の上に敷いた。
酸素ハウスとなったケージの置き場所は、前回と同じ、もともと猫砂の箱を置いていた位置である。この箱の上は、ダメのお気に入りの場所であった。彼は、同じ場所に行きたがるかもしれない。だが、彼の体力では、ケージの上に飛び上がることは不可能だろう。そう思って、すぐ横に猫砂の箱を置き、それでもケージとの高低差がかなりあるので、箱の上に、さらに半分の大きさのクッションスツールを置いて、階段状の足場にしたのだ。
実際には、目貼り用の養生テープが足りなかったため、設置完了は翌二十六日となったのだが、その日であったかさらに翌日であったか、気が付いたらダメがケージの上に座っていて、嬉しくなったのを覚えている。
十二月二十八日土曜日。
休みに入ってすぐ、玉音を病院に連れて行った。
アレルギーによる顔面の掻き壊しが酷く、気付いたらホラー状態になってしまっていたからである。
「先生、全然良くなってないみたいです。気が付いたら凄くて。」
「うーん、メドロールが効かなかったか。じゃあ、プレドニンを使ってみるか。」
それ、ダメの薬と同じやん。
そこで、前回と同じ質問を、もう一回される。
「お薬塗ってあげることはできる?」
「できません。」
きっぱり即答。
「無理です。捕まりません。」
「だよねえ。」
何しろ、体重を測るだけで、
「じゃ、一瞬だけ手離して。いいですか?せーの…」
「はっ」
「ヨシ!三千七百。もういいですよ!」
「おっと。あ、玉ちゃん、行っちゃダメ!!」
と、この騒ぎなのである。
「何か、この頃、さらに野良化が進んじゃって…」
「困ったわねえ。」
先生は薬を探しながら、苦笑まじりに玉音に話しかける。
「アナタはなんで、お母さんにそんなに冷たいの!」
「この頃、大治郎にかかりっきりで、放置しすぎたせいかも。」
「あー、拗ねてるのね。淋しくて。」
え、そうなのか。
「そう考えると…可愛いですね。」
なるほど。愛い奴である。
ついでに、ダメの近況も話す。
猫ミルクを飲ませている、と言うと、
「ああ、いいんじゃないですか。」
と、賛意を示していただき、続けて、
「ミルク飲ませてるんだったら、こんなのもありますよ。」
先生がくれたのは、「ペットアイジージー」という免疫ミルクのサンプルだった。ありがたくいただいて帰って、さっそく夕食のミルクに混ぜて飲ませてみる。
そもそもシリンジで飲ませているので、彼にしてみれば拒否のしようもないわけだが、牛乳から作っているだけあって、少なくとも人間の鼻には、ミルクの香りしか感じない。おいしそうである。腫瘍に効くのかは分からないが、以前、「効果がある」という触れ込みに惹かれて買ったサプリメントも、自己免疫力を高めることでがん細胞を押さえこむという説明だったので、いくらかは良いこともあるかもしれない。
故に、その「ペットアイジージー」の購入を一瞬、本気で考えたのだが、そこでまた、遅ればせながら気が付いた。
その、以前買った高いサプリは、多分、無味らしいが独特の匂いがあるので、フードに混ぜるとダメは嫌がるようになっていた。それゆえ、勿体ないが諦めて放置してあったのだが。
そうか。あのサプリを復活させてみるという手があった。
非情に思われるかもしれないが、どのみちシリンジ強制なのだ。多少匂いがあっても、苦くなければ飲ませることができるのではないか。
と、いうわけで、翌日二十九日からサプリメント復活。相変わらず匂いはあるが、猫ミルクの匂いにカバーされて、いくらか気にならなくなっている(と、思うことにした。)
多分、美味しくはないだろうな、と思いながら、朝晩、ミルク+サプリの給餌が始まった。ちょっと可哀想な気はしたが、ダメはそれでも飲んでくれた。
このサプリが終わったら、「ペットアイジージー」を買おう、と考えた。
ちなみに、多分、この頃から、ミルク給餌の際、私はダメを膝に乗せるようになっていた。お膝でミルクなんて、本当に赤ちゃんみたい、と思いながら。
ダメは私が好きなくせに、大きすぎて膝に乗れない猫だった。何度もチャレンジしたが、いつも何となく納まりが悪くて、すぐに降りてしまっていた。そのダメが、軽々と膝に抱きかかえられるようになっていたのだ。
そして。
小さく、やせ細ると同時に、筋力も落ちていった。
最初は左後足が、何となく不安定になり、体重がかけにくくなっているように見えた。それはクリスマス前後のことだったと思う。それからだんだんと歩き方が不自然になり、足腰が覚束なくなっていった。
ダメの寝場所は、リビングの座卓の下に定まった。なぜクッションのない所?と少しばかり不思議な気がしたのだが、今考えると、ほんの十センチほどの高さでも、その時の彼にとっては、乗り越えるのが大義だったのではないか。いずれにしても、座布団ひとつ使わないので、私が休みに入ってからは、日の当たらない時間帯はホットカーペットのスイッチを入れっぱなしにすることにした。
休みが明けて出勤するようになったらどうしようかな、などと考えながら。
これは確か、十二月三十日の夜のこと。
トイレから出てきたダメが、直後、段差の着地に失敗し、リビングの入口あたりでふらつき、転んだ。
私の見ている目の前だったので、急いで手を出したのだが、このとき、リビングからこちらを見ていたアタゴウロウが、転んだダメに駆け寄ろうとしたのを、私は見た。結果的に私の方が早かったので、アタゴロウは再び歩き出したダメに寄り添ったのだが、その後、ダメの頭や肩のあたりを熱心に舐めていた。
私の思い込みではなかった。本当に、奴はおじさんを心配し、労わっていたのだ。
ちなみに、十二月三十日の昼間、私は出勤だった。職場でシステムの入れ替えがある関係で、休日出勤だったのである。
帰宅して、いつもどおり玄関で声をかけた。
「ただいま。ダメ、帰ったよ。」
ダメは私が帰宅すると、必ず出迎えに来る。冬場はリビングと玄関の間のドアを閉めてあるので、そのドアの際まで来て、嵌め殺しのガラス窓からこちらを覗いている。そして、私がドアを開けると玄関に突進して、たたきでゴロゴロする。
私がなかなかドアを開けないと、あるいは、玄関から何回か呼びかけると、ドアの向こうから鳴いて応えてくれる。
だが、その日は、そのいずれもなかった。
ドキっとした。
最悪の事態さえ予測しつつ、恐る恐る、リビングのドアを開けた。
ダメはビーズクッションの上にいた。無事だった。
ただし、もう、迎えに出てくる気力も体力もなかったのだと思う。
大晦日。
実は、この日の記憶があまりない。
特に事件はなかったような気がする。超低空飛行とはいえ、ダメの状況は落ち着いていたのだろう。お天気も良く、昼間は暖かかったので、ホットカーペット問題も懸念の種とはならず、私は呑気に外出していた。
一連の騒ぎですっかり失念していた恩師の墓参りを済ませ、午後はさくらと映画を見に行った。
帰宅したとき、やはりダメは迎えに来なかった。予想していたこととはいえ、少し淋しく感じた。
夕食のミルクを飲ませながら、思っていたこと。
ダメの体からだろうか、口からだろうか、例のサプリメントの匂いが漂うようになっていた。
が。
ふと気が付いた。一時期、血が混じったように色づき、常に目を潤ませていた彼の目ヤニが、かなり少なくなっている。確信はないが、サプリメントは効いていたのである。
やっぱり、まずそうで可哀想だけど、この瓶が空になった後も、同じサプリを続けた方がいいかもしれない。そんなふうに思い始めた。
思えば、この大晦日が、彼にとって最後の穏やかな日だったのかもしれない。
もちろん、下り坂はずっと続いていたわけであるが、年を越してからが急降下だったように思えるからだ。
「ように思える」というのは、自分でも可笑しくなるくらい、記憶が飛んでしまっていて、色々なことが思い出せずにいるから。これはいつだっけ?とか、これはいつからだっけ?というのがはっきりしない。ここまで書いてきたが、もし事実と突き合わせたら(それが可能なら)、ずいぶん違う点もあるかもしれない。
たった一ヶ月のことなのに。
それも「濃い」一ヶ月だったはずなのに、もう忘れている。
こうやって、人は忘れていくんだな、と、今、変な感慨を抱いている。それがいいのか悪いのか、よく分からないけど。
以上、十二月の日々を、思い出せる限り、思い出して書いてみました。
ここまでお付き合い下さった皆様、長々・だらだらと、乱文すみませんでした。