平成の猫

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2007年11月25日撮影

 

 昭和天皇崩御し、時代が平成へと移り変わったのは、私が大学二年生のときである。

大喪の礼」のテレビ中継を、私は大学のスキー合宿へ向かうバスの中で見た。

 その二年後、私は卒論を提出して大学を卒業した。私達の学年は、それまで大学指定の原稿用紙に手書きとされていた卒業論文の、ワープロ提出が認められた、最初の世代である。

 年度が明けて、社会人になった。初めて配属された職場で、私は一瞬だけ、職場の人々の称賛を集めた。理由は「ブラインドタッチができるから」であった。

 そんな時代だった。

 

 私が、というより、私の実家が初めて猫を飼ったのは、その三年後である。

 名前は、ジンジャー。美しく、また抜群に頭が切れるサビキジ女子であった。情緒のレベルも極めて高い、今で言うところのツンデレでもあった。

 今考えても、希有な猫だったと思う。

 私の猫の好みは、すべて彼女を基準としていると言っていい。

 

 実家で猫と暮らした期間が、およそ三年。

 さくらとのルームシェアを経て、現在のマンションに入居したのが、私がちょうど三十歳になるとき。

 だが私は、実家を出てからずっと、猫を飼わずに過ごしてきた。ジンに対する思い入れが、あまりにも強かったからだ。

 六年後。ジンがこの世を去って、はじめて私は、自分で猫を飼うことを考えた。

 こうして我が家の初代猫となったのが、亡きミミさん(三冬)である。保護主が亡くなり行き場を失っていたところを、縁あって拙宅にお迎えした。

 はじめは彼女を単頭飼いするつもりであったが、じきに思い直して、“遊び相手”を迎えることにした。三ヶ月後、紆余曲折を経て、後に「ダメちゃん」と呼ばれることになるキジトラの大治郎氏が、私の二匹目の猫として登場した。

 平成十七年のクリスマスイブのことである。

 

 

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2008年2月8日撮影 ダメとミミ

 

 いつだったか、さくらと「自分の人生を変えた猫はどの子か」という話をしたことがある。

 私は迷わず「ダメちゃん」と答えた。

 さくらは、意外そうな顔をした。

「へえ。私はてっきり、ジンちゃんかと思っていたのに。」

 さくらに指摘されてはじめて、私は、確かにそうかもしれない、と思った。前述したとおり、私の猫の好みは、すべて彼女を基準としているのだから。

 だが私は、それでもやっぱり、私の答はダメちゃんだと思った。理由は説明できなかったけれど。

 さくらはこの会話を覚えていないだろう。だが、私はその後も、事あるごとに、この質問を、自分に対して投げかけているのだ。

 

 今なら説明できる。

 ダメは私に、たくさんの出会いを運んでくれたのだ。

 何より、リトルキャッツさん、そしてyuuさんとの出会い。

 保護活動への関心と、ボランティアさんたち、他の里親さんたちとの出会い。

 他の猫たちとの出会い。

 そして今でも、身近にいる猫好きの友人・知人たちとの絆を、彼は常に繋ぎ続けていてくれる。

 

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2009年10月6日撮影。ダメと仔猫のムム

 

 リトルキャッツさんとの出会いを、人に話したことはほとんどなかったと思う。

 実は、リトルキャッツさんから譲渡された猫は、ダメが最初ではない。今も実家にいる彼の“妹”のりりが、猫山家に縁付いた最初の猫のである。

 ジンが亡くなった後、私は実家の母に、次の猫を飼うように勧めた。「ななちゃんの遊び相手」という名目で。

 それでは飼おうかということになったとき、家族の間では、新しい猫は保護猫でというのが、暗黙の了解であった。

 いや。

 保護猫、なんて言葉は、知らなかった。

 何しろ、世事に疎い昭和な家族である。猫は拾うか、貰うかして飼うものだという固定観念が、すっかり頭に染みついていたというだけの話だ。

 猫を貰う方法だけが、ちょっぴり近代化していた。つまり、インターネットの掲示板で、里親募集の記事を探し始めたのである。

 とはいえ。

 一体どうやって検索したのか、どういう基準で対象を絞り込んでいたのか、全く覚えていない。

 ものすごい数の里親募集記事を見たことだけは覚えている。ただし、当時の私は、今考えると恐ろしいほどに無知であった。保護団体というものがある、という程度の認識はあったが、団体も個人保護主も全く区別していなかったし、まして、譲渡元の信頼性だの、保護環境だの、保護に至った経緯だのを考慮するという発想など、夢にも持っていなかったと思う。

 そうこうしているうちに、美しいサビ猫の募集記事を見つけた。

 そのサビちゃんは、サビである上に、成猫になってから保護された元野良で、保護から半年経ってやっと触れるようになったというくらいの、高難易度物件であった。しかも、そうした記事の掲載年月日が、すでに二年くらい前の日付である。

 どう考えても、素人には難しい子なのだが、物知らずな私は、その保護主さんにメールを送った。

 保護主さんも、相当びっくりしたことと思う。だが、丁寧に、「この子は無理だと思う」という旨のお返事を返してくれた。

 こうした場合、依頼を断った保護主さんは、「こっちの子はどうですか?」と、別の子を紹介してくれるものと相場が決まっている。

 だが、このときに限って、そういう展開にはならなかった。

 何故って。

 やむを得ない話である。募集記事の掲載から二年。確か神奈川在住だったその保護主さんは、すでに関西に引っ越していたのだから。

 

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2011年9月7日撮影

 

 なぜ自分が、そういう依頼をしたのか。

 そこも覚えていない。多分、もう、膨大な里親募集記事の情報を検索することに疲れていたのだろう。

 その保護主さんに返信する際に、私はお願いをした。

 それでは、あなたの知っている、東京近郊の保護団体を紹介してください、と。

 だが、返ってきたメールを見て、私はさすがに仰天した。そこには、こう書かれていたのだ。

「新宿から高速バスで二時間、山梨です!」

と。

 

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2014年6月30日撮影

 

 まさか、山梨の団体を紹介されるとは。

 どう考えても、遠すぎるだろう。都内にも千葉にも、いくらでも保護団体はあるのに。

 そう思ったのに、何故、リトルキャッツさんにアタックしてみる気になったのか。

 せっかく紹介していただいたのに、無下にはできない、という遠慮もある。だがおそらく、いちばんの理由は、近くにいくらでも団体はあるのに、敢えて山梨の団体を紹介してきたところに、その保護主さんの強い推薦の意思を感じ取ったからではなかったか。もう詳細は覚えていないが、その方は、yuuさんのことを「友達」として、その人柄を誉めていた。そして、その回答メールは、文面もタイミングも、一瞬の躊躇も感じさせない「即答」であった。

 私は教えてもらったアドレス宛にメールを出した。すぐに、yuuさんから返信が来た。

 私自身のこと、というより、猫を迎える環境について教えてほしい、という内容だった。

 私は自分のことや、家族のこと、ジンやななのことについて書き送った。そこから、yuuさんとの「文通」が始まった。

 当時は、リトルキャッツさんも黎明期で、まだyuuさんにもほかのメンバーさんにも、多少の余裕があったのだろう。内容は事務的なやりとりであったはずなのだが、まるでお喋りをしていたかのような印象が、私の中に残っている。

 結局私は、当時リトルさんが地元のスーパーの駐車場を借りて行っていた譲渡会に、温泉旅行がてら行ってみることにした。

「お会いしてみたいな、と思います。」

というメッセージをyuuさんからいただいて喜んだのは、このときのことであったか。それとも、その後のことであったか。

 結局、その譲渡会で、私はyuuさんに会うことができなかった。たまたま、直前にお身内に不幸があり、その日に限って、yuuさんは譲渡会に不参加だったのである。

 

 だが。

 その穴を埋めあわせるかのように、その日のその譲渡会場で、私はダメに出会ったのだ。

 

 

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2015年4月25日撮影

  

 これは本当に余談である。

 その譲渡会で、りりを譲渡してもらう手続きをしていた際に、対応して下さったメンバーさんから聞いた話が忘れられない。

「うちにもね、保護猫のほかに、我が家の猫というのがいるんですよ。うちにはたいてい、保護した猫が何匹もいるんだけど、たまーに、何かのはずみで、一匹もいなくなるときがある。で、その後、また新しい猫を連れてくると、その我が家の猫がね、『えーっ!!またあ?』って、顔をするんですよ。」

 そのときは、ふうん、そんなものか、くらいの受け止め方だったのだが。

 分かる人には分かる。猫を飼う年数が長くなるほど、年を追うごとにジワジワくる話である。

 先日、ふと思った。あのとき、この話をして下さったのは、リトルさんの“裏ボス”のKさんではなかったかしら?

 いや、お顔を覚えているわけではないので、本当に、ふと思っただけなのだが。

 

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2010年12月1日撮影

 

 私が初めて自分のパソコンを買ったのは、平成十三年の十一月のことだ。つまり、ダメと出会う四年前である。

 同年代の中では、遅い方だったと思う。

 パソコンがあれば、インターネットが見られる。友達とeメールも送り合える。自分のホームページも作れる。そういえば、「ポストペット」なんていう、バーチャルペットがメールを配達してくれるメールソフトも大流行していて、私は「Pos-Gin」 という猫を飼っていた。私は購入しなかったが、「ホームページビルダー」というソフトも、店頭で類似品が何種類も並ぶほど流行っていたと記憶している。

 私がyuuさんと「文通」を始めたころ、世の中はすでに、携帯メールの時代に移りつつあった。だが、個人間でのパソコンメールも、まだまだ一般的であった。

 個人から公に向けての情報発信も、誰もがただやみくもに自分のホームページを作っていた時代から、ブログへの移行が本格化してきた時期であった。ホームページを更新するのは大ごとゆえ、どうしても「時々」になってしまうが、ブログは気軽に毎日更新できる。せっかくパソコンを持っているのに、それまで特に見たいサイトもなかった私は、リトルキャッツさんのホームページ、特にyuuさんのブログを毎日チェックするのが日課になった。

 繰り返すが、当時はリトルキャッツさんも今よりのんびりしていたのだと思う。「おしゃべりBBS」は、文字どおり、メンバーさん、ボラさん、里親さんなどなどのお喋りの場で、亡きヒゲクマさんも、ユーモアあふれるお喋りを、度々投稿されていた。

 りりを貰い受けた譲渡会からの帰りがけ、私は、仔猫ばかりの会場の片隅に、つい先程まではいなかったはずの、明らかに月齢の大きい二匹の猫がいることに気付いた。一目で雄と雌と分かる、精悍な顔立ちのキジトラ雄と、別嬪のキジ白雌のカップルだった。一緒にいた母は、美女猫のキジ白に惹かれたようだったが、私はほれぼれするほど尻尾の太いキジトラ雄に興味を持った。

「あの子たちは誰ですか?」

 帰宅後、メールでyuuさんに尋ねると、その場に居なかったyuuさんは、多分、病院の保護猫でしょうと答えた。結果的には病院の猫ではなかったのだが、一般持ち込みの保護猫であったことには違いない。

 つまり、その時点で、ダメはリトルキャッツさんの猫ではなかったのだ。

 その一週間後に、「事件」は起こった。

 ダメと、あの別嬪の妹猫が、譲渡会場に遺棄されたのである。

 二匹を連れてきたのは高齢のご夫婦だったという。初めて二匹を持ち込んだ一週間前(私が訪れた回)の譲渡会では希望者がなく、その日は連れ帰ってもらったのだが、このためにご夫婦は、この調子ではいつ売れるか分からないと危機感を抱いたのかもしれない。二回目の譲渡会が終わっても、ご夫婦は猫を引き取りに来なかった。翌日、リトルキャッツのメンバーさんがアンケートに書かれた住所を訪れると、彼等は、いらないから引き取ってくれ、返してくるなら保健所に連れて行く、と、言い放ったというのだ。

 その話を、私は、yuuさんからのメールと、ブログの記事で知った。

 yuuさんは怒っていたが、私は、今だから言うが、ほんの少し、嬉しい気持ちも抱いていた。

 もう縁がないと思っていた、あのキジトラ氏の消息を、今後も知ることができるからだ。yuuさんにメールで尋ねることもできるし、ブログにも登場するかもしれない。

 その後、リトルさんの保護猫となった彼――仮名「だいちゃん」――を紹介したブログの記事で、yuuさんは彼のことを「美形」だと書いていた。嬉しかった。自分の猫でもないのに。

 

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保護時の「だいちゃん」と妹猫「みどりちゃん」(写真はyuuさんのブログからお借りしました。)


 

 その後、ダメを我が家に迎えるまでの四ヶ月間、私とyuuさんの「文通」は、断続的ながら続いていた。

 その間に、私がyuuさんに尋ねたことがある。

「保健所に送られた猫は、生きたまま焼却炉に入れられると聞きましたが、本当ですか?」

 確か、yuuさんの答えはこうだった。

「ガスで殺されます。目玉が飛び出るほど苦しみます。それでも死に切れない子は、焼かれます。」

 ショックだった。

 生きたまま焼却炉というのは、多分、誰かが雑誌か何かに書いていた、それ自体が伝聞の話だったと思う。それでも充分ショッキングだが、ガス室に入れられ、目玉が飛び出るほど苦しむ、というのは、一体どんな状況なのだろう。想像もつかない。

 毎日閲覧しているリトルキャッツさんのホームページは、明るく楽しかった。関わる人たちは、みんな猫が大好きで、陽気でユーモアがあり、優しい人たち。そのコミュニティに触れ、自分も猫好き・猫飼いとして、その仲間の一人なのだと感じることに、喜びを感じていた。

 だが、その陰には、こんな残酷な現実があったのだ。

 私が保護活動というものの重さを多少なりとも意識したのは、このときが最初だったかもしれない。

 

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2015年6月7日撮影

 

 ダメを我が家に迎えた、平成十七年のクリスマスイブ。

 yuuさんと初めて会った日でもある。

 ずっと話し合いを続けてきた譲渡が果たされたことで、私とリトルキャッツさんとのお付き合いは、そこでいったん終了するはずだった。

 それが終了しなかったのは、ダメが私の思っていた猫と、若干違う面を持っていたからだ。

 大人しい子だとは聞いていた。いるんだかいないんだか分からない子、気が弱くて、ご飯時には、他の子が食べ終わった後に、皿の残り物をそっと舐めているような子だと。

 だが。

 彼の心の傷は、私が思っていたより、ずっと深かった。

 まず、初日。彼はトイレを使うことができなかった。夜中になって、オシッコがしたくなったようなのだが、自分の知らないトイレを使うことができず、一晩中、自分の毛を掻き毟って鳴きながら、家の中をうろうろ歩きまわった。彼が我が家のトイレを使ったのは、明け方になってからのことである。

 ミミとは、問題なかった。二匹は、ダメがキャリーケースから出たとたんに、向き合って鼻鼻挨拶をした。そして、一時間後には一緒にこたつに入るという、通常なら考えられないほどの優しい出会い方をした。

 ダメは私にも、最初から懐いたように見えた。

 が。

 ほどなくして気が付いた。彼は私に、甘えることができなかった。甘えたい気持ちはあったと思う。だが、甘え方を知らなかったのだ。

 ただひたすら、私の周りをぐるぐる歩き回るだけ。

 ご飯は、最初からもの凄い勢いで食べた。当初、ウェットフードのトール缶を一本半、ガツガツと一気食いした。怖くなって途中でやめさせたのだが、もし与え続けていたら、一体どこまで食べたのだろう。yuuさんのブログにも「猫缶が大好きすぎて困る」という記述はあったのだが、それにしたって、この食べ方は異常だと思った。

 私は、どうしたらよいのか分からなかった。

 そこで結局、またyuuさんに相談したのである。

 yuuさんは、「このくらいの量で」と、食事の量についてアドバイスしてくれた上で、戸惑う私に対し、いつかは、だいちゃんの頑なな心もとけるはず、とおっしゃった。また、だいちゃんをあなたに任せて良かった、とも言ってくれた。

 それからおよそ二ヶ月。

 ダメの顔つきが変わった。

 無表情だった瞳が輝きだし、彼本来の豊かな感情を、雄弁に語りだしたのである。

 そんな劇的な彼の変貌に出会った感動を、私は忘れない。私の猫飼いとしての本当の出発点は、間違いなくここにあるのだ。

 

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2019年1月1日撮影

 

 もう一つ。

 ブログのこと。

 強そうな外見に似ず、気弱で健気で、ちょっと要領が悪いダメの日常は、優等生のミミさんとの対比もあって、実にネタの宝庫だった。私はそれを毎日、職場の先輩に語って聞かせ、姉にメールし、ついには「ダメちゃんニューズレター」と称して、友人たちに配信するようになった。

 その配信先に、その頃にはもう超多忙の人となってしまっていたyuuさんも含まれていた。

 私に、ブログを始めたらいいのに、と、勧めてくれたのはyuuさんである。

 当時の「ニューズレター」は、小ネタの単発形式で短かったから、確かに、写真を付けたらブログにちょうどいいボリュームだったかもしれない。yuuさんも、他の友人たちも、おそらく、私に「文章を短く書くことができない」という致命的な欠点があることを知らなかっただろうから、もちろん、誰も止める人はなく、私はこのブログを始めた。

 後日、こんな、自分でも持て余すような大げさなシロモノになるとは、私自身も、予想していなかった。

 ただ一人、兄からだけは、これはブログらしくない、むしろフォトエッセイじゃないの?と指摘を受けたのであるが。(さすが兄弟だけあって、私の性格を見抜いていたらしい。)

 だが、ブログの開設は、日常生活の中で、思わぬ効果をもたらした。

 実生活において、私は特筆するような趣味も特技も持たないため、自分自身をPRすることが意外に難しい。本質的に人見知りの秘密主義だから尚更である。そんな場面で、ブログの存在は役に立った。

 少し親しくなった人とは、世間話の際、他に話題もないので、必然的にダメちゃんネタを披露することになる。相手が猫好きだったりして興味をもってくれるようなら、また、私がその人に心を許し、もう少し親しくなりたいと思ったなら、頃合いを見て、実はブログをやっているの、と打ち明ける。

 ブログを読んで、ダメちゃんを好きになってくれた人とは、確実に友達になれた。

 かつてこのブログのレギュラーメンバーだった天竜いちごさんも、今も時々登場する、猫カフェ荒らしのSさんも、実はそうやって友達になった人たちなのである。

 そして。

 またしてもリトルさんネタで恐縮だが、山梨にいるリトルキャッツさんの“スーパーボラ”のAさんに至っては、何と、ダメちゃんのファンだと言ってくれた。

 ダメちゃんのファン!

 嬉しい。こんなに嬉しいことはない。

 いるんだかいないんだか分からない、と言われた猫。表情がない、目力がない、と言われた猫。そのダメちゃんに「ファン」がいたのだ。彼の魅力を分かってくれる人が、こんな離れた所にもいたのだ。

 ダメちゃんのお陰で、ブログを始めた。

 そのブログのお陰で、私に友達ができた。

 それが巡り巡って、その恩恵が、ダメちゃん自身に返ってきたのだ。

 

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2019年2月3日撮影

 

 だけど。

 ふと思う。

 だけど、今、ブログって、何にも属さない普通の一般人がネット上で発信するツールとしては、化石に近い存在だよね。

 ダメを迎えた頃は、ブログが流行りだした時期だった。

 その全盛期に、私自身がブログを始めた。

 個人の発信ツールは、やがて、ツィッターフェイスブックに移り、今の主流は、インスタグラム、だろうか。

 この流れは、一面から見れば、文章を「書かない」方向に向かっているということではないか。

 思えば、個人間の通信手段も、パソコンメールから携帯メールになり、今は一応、LINEということになるのだろうか。それでも、若い人たちの間ではLINEさえもすたれ始めていると聞く。LINEを使う場合にも、メッセージ文を書くのではなく、ひらがな一文字だという笑えない話も聞こえてくる。

 私も今は、基本的にLINEを使っているが、使っていて感じるのは、LINEはそもそも、「文章」を書くことを想定していないということだ。

 そんな時代の流れに逆行するように、私は超長文のブログを書いている。(更新頻度は酷いモノであるが。)

 はっきり言って、ただ流れだけで書いているとはいえ、このボリュームの文章を書くのはしんどい。短く書けないのは自分の力量不足なので仕方ないが、それなら、文章をほとんど書かないで済むインスタに乗り換えるかと問われれば、私はNOと答える。

 できないからだ。

 高性能のカメラと、撮影の腕があったとしても、私が伝えたい我が家の猫たちの魅力を表現することは、それでは不可能だからだ。

 少なくともダメちゃんに関しては、その端正な外見から、彼の魅力あふれるキャラクターを想起してもらうことは相当に難しい。彼の生活・彼の生涯は、ストーリーであり、会話であり、彼と私の、成長と老いの「過程」そのものでもある。それは語り、したためるものであって、画像や動画に切り取って伝えられるものではない。

 そんな私の「猫観」そのものが、時代に逆行しているということなのだろうか。

 

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2019年3月21日撮影

 

 昨日、突然気が付いた。

 我が家の中で、かつては当たり前に見られたのに、今は全く見られなくなった光景。

 それは、「風呂蓋の上の猫」である。

 毎年、気温が下がってくると、ダメが風呂蓋の上で暖をとるようになる。それを見て、ああ冬が来たなあ、としみじみ感じたものだったのだが。

 これは、我が家だけの現象なのだろうか。

 あるいは、私が歳をとって、寒いと感じると迷わず暖房を使うようになったせいなのか。今いる二匹は、風呂蓋には見向きもしない。

 それから、キャットフードのこと。

 私が猫を飼い始めた頃、獣医さんに言われた猫の食事は「メインは缶詰、補助的にカリカリ」であった。だが、今は、むしろドライフードが主流で、ウェットフードはほぼ嗜好品の扱いである。

 あのとき、ダメは猫缶を一本半、ぺろりと平らげたというのに。

 猫飼いの「常識」さえ、いつのまにか覆っている。

 時代は変わったのだ。

 

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ミミさんと。2008年4月28日撮影。

 

 最初の質問に、立ち返る。

 私の人生を変えた猫は、ジンちゃんか、ダメちゃんか。

 その答えにはならないが、この二匹について、私の中には、ある種の位置付けとでも言うべきものがある。

 ジンは、私が青春を共にした猫だった。

 青春とはいつまでを指すのか。言葉自体があまりにも曖昧なため、私はむしろ、ジンちゃんが亡くなるまでが自分の青春時代、という捉え方をしてしまっている。

 時代は平成前期。バブルは私が就職してすぐにはじけてしまったが、ほんのしばらくの間、まだその余韻は残っていた。私だって当時は、ミニスカートのスーツを着て通勤していたし、アフターファイブには銀座に繰り出して、友人たちと映画や食事。毎年海外旅行に行き、時には女友達の家に集まって夜通し恋バナに興じる。「おしゃれ」で華やかな生活に憧れた。

 ほどなくバブルの余韻は終わったが、その後の暗い時代に直面してからも、自身はデキる女・カッコいい女になりたいと足掻き、ひたすら背伸びをし続けていた。そんな私の傍にいたのがジンちゃんだ。

 ダメと過ごした日々は、それに続く時代だ。青春が「春」だから、「夏」の時代とでも言うのだろうか。

 華やかさに惹かれた青春を卒業し、人目を気にせずにのびのびと、自分が本当に好きなもの・価値を認めるものに出会い、見出していった時代。

 世相的にも、きらびやかさより「質」、そして「癒し」が求められ、またナチュラルさや「自分らしさ」が見直された時期だったのではないか。その空気感を象徴するいわばアイコンとして、彼の存在は私の中にある。

 そして、今。

 季節は「秋」だろうか。

 私はもう、自分が時代の中心部分にはいないと感じている。

 そして、もしかしたら、人生の中心にも。

 悲観的な意味にはとらないでほしい。私は単に、「文章を書かない」令和の時代が、自分の求めるそれではないと思っているだけなのだ。

 ダメは平成十七年に生まれ、平成後期を生きた。

 彼が残してくれたもの。彼が繋いでくれたもの。それらは多分、今の時代には古いものだ。だが、その古いものが、私の人生の「夏」なのである。

 

 令和二年一月三日。

 ダメは旅立って行った。

 平成の時代の最後の息吹とともに、彼は私の人生から去って行ったのだ。

 

 

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