伝説の猫


 ついに、伝説が破られる日が来た。
 ヨメが、来訪者の前に、完全に姿を現したのである。
 伝説の猫、降臨…。


 昼間、母が訪ねてきた。
 とはいえ、
「まあ、ムムちゃんには会えないだろうけど。」
その点については、母も私も、初めから諦めムードであった。
 ただ、最近はヨメも「体操のおねえさん」には姿を見せていたので、うまくすれば、離れたところからチラっと見るくらいはできるかな、という程度の期待はあった。
 母が到着したとき、ヨメはまだ見えるところにいた。
 母をそっと呼び寄せ、とりあえず、全身像を見せる。
「あら、大きいわねえ。」
 そのとき、母とヨメの目が合った。
 ヨメは物陰へと逃げた。が、何と、潜り込まずに、顔を出して様子を窺うに留まったのである。


 ここまで来たら、次は「体操のおねえさん」伝説へと、話を移さねばなるまい。
「体操のおねえさん」とは、ズバリ、私の姉である。
 姉は、猫を遊ばせるのが上手い。
 当家の歴代の猫たちは、みんなこの人に遊んでもらって大きくなった。
 しかし、実家の猫たちは、ななもりりも、もういい大人である。「ねこきも」のオマケでおもちゃはいろいろ集まるのだが、このところ、使う機会はほとんどなかったらしい。
 先日、私が旅行で留守をした際、姉に猫たちの世話を頼んだ。
 それに先だって、説明と「慣らし」がてら、何度か遊びに来てもらったのだが、そのとき、姉は、実家で眠っていた、猫のおもちゃを持参したのである。


 姉の姿を見て、ヨメは一目散に、見えない場所へと逃げ込んだ。
 避難場所は、昼間は壁に立てかけてある、私のベッドマットレスの陰。
 姉は構わず、おもちゃを出してきてちらつかせた。
 すると。
 別の猫が飛んできて、遊び始めた。
 おもちゃの魅惑に、夢中になって踊り狂うアマノウズメノミコト・ダメ。楽しい踊りの喧騒に、
(まあ…何かしら!?)
と、黒いアマテラスは、天の岩戸の隙間からそっと姿を現し、ついに、一緒になって踊り始めたものである。
 こうして、幻の猫は、「体操のおねえさん」の魔力に屈した。
 私の旅行中も、毎日仲良く体操に励んでいたらしい。
 ただし。
「でも私、この子に触ったことないのよね。」
 そう、幻の猫は、神秘のヴェールを、完全に脱いだわけではなかったのだ。
 

 母がヨメとの対面を諦めていたのには、理由がある。
 ヨメがまだ我が家に来たばかりの頃、母と姉が、新しい猫を見ようと、そろって遊びに来た。
 が。
 人見知りの少女は、物陰に隠れて出てこない。
 そこで、姉に、我が家にあったおもちゃを渡した。
 実はこのときヨメは、同じように、出てきて遊びに参加している。
 そして、遊びが一段落し、ヨメの緊張も大分ほぐれたかな、という頃。
 こらえきれなくなった母は、おばばさまとは思えぬ、目にも止まらぬスピードで、油断したヨメをさっと抱き上げちゃったのである。
 突然のことにびっくりしたヨメ。大パニックを起こしつつ、暴れて母の腕から逃れ、物陰に飛び込んで、それから二度と出てこなくなった。
 この事件は、ヨメの「トラウマになった」と言われている。
 これをネタに、姉と私が母をからかうので、母はすっかりそのことを気に病み、
「私はムムちゃんに嫌われているから…」
と、大変弱気だったわけ。


 しかし、今日。
 母が帰るまで、ヨメは、一度も物陰に潜り込むことはなかった。
 積極的に傍に来ることもなかったが、見えるところにはいた。
 そして、その様子が、リラックスしているように見えたので。
「さて、そろそろ帰るわ。」
と、母が腰を上げた時、私は母を伴い、立てかけたベッドマットレスの上でくつろいでいるヨメの横に立った。
 ヨメは、逃げなかった。
「ムムちゃん、お母さん、帰るって。」
 私が撫でても身動きしなかったので、母を促し、母もそっと、ヨメの首の辺りを撫でた。
 ヨメの耳には、緊張の気配が見えたが、ヨメは動かず、されるがままになっていた。
 そう。
 ついに、私以外の人間に、毛皮を触らせたのである。
(※動物病院のスタッフは別として。)


 幻の猫は、本物の猫になった。
「絹の手触りねえ。」
 そう、ムムの毛は、ほんのちょっとだが長毛系である。ミミさんに似た、絹糸のような極上の手触りなのだ。だが、今まで、それを知っているのは、私一人だけだった。
「お母さん、お姉ちゃんに自慢できるよ。」
 母は喜んで帰って行った。
 次は、きっと姉が「絹の手触り」を体験しに、訪ねてくるだろう。
「体操のおねえさん」が、普通のおねえさんになる日も、案外近いかもしれない。


 それにしても。
 母が何気なく漏らしたこの一言は、私を瞠目させた。
「ムムって、サビ猫だったのね。黒猫かと思ってたわ。」


 し、知らなかったのか…。(あんなに何度も遊びに来ていたのに。)


 幻の猫伝説は、いつの間にか、真実を欺く俗説をも派生させていたのである。