ただ本能の命ずるままに

 

 
 一日遅れで、土曜日の話。
 
 
 1月15日土曜日。
東京は久々の曇り空。
「雨の日の猫はとことん眠い」というタイトルの本も出版されているほど、天気の悪い日、猫は活動性が低下する。
 狩りを生業とする動物ゆえ、天気が悪く狩りに適さない日は、ひたすら眠って体力を温存するのだ、と、聞いたことがあるが、どこまで科学的根拠のある話かは知らない。
 ただ確かに、天気が悪いと、本当に猫は面白いくらい寝てばかりいる。
 その日も、雨でこそなかったが、我が家の猫どもは午前中から寝てばかりいた。
 …という話を書くはず、だったのだが。


 午後、私が遅いお昼を食べていると。
 ふいに、ヨメが鳴き始めた。
 最初は特に気にしなかったのだが、ヨメの奴、いつまでも鳴いている。それも、何だか粘着質な鳴き方である。
 彼女はキャットタワーのてっぺんにいて、降りてくる気配はない。遊んでほしい、とか、ごはんをねだっている、というわけでもなさそうだ。
 一体何の騒ぎだ!? と思って見上げると。
 彼女の視線は、天井の一点に集中していた。


 天井に、蜘蛛がいたのである。
 

 
 
 私は比較的、蜘蛛が平気である。
 毒蜘蛛や大きな蜘蛛はさすがにご勘弁願いたいが、そのへんにいる小さな蜘蛛なら、別に気にしない。益虫である、という認識もあってのことだ。
 であるから、別に、ヨメに蜘蛛をとってほしいとは思わなかった。
 蜘蛛がいるのは、ヨメが手を伸ばせば、もう少しで届きそうな位置である。ヨメは身を乗り出し、懸命に距離を測るが、いかんせん、キャットタワーのてっぺんである。乗り出し過ぎてバランスを崩したら、即、落ちる。ジャンプしてとびかかることもできない。
 猫という連中は、飽きるときはさっさと飽きて、遊びでも食事でも適当に切り上げてしまったりするものだが(そして、人間が「もう終わりだな」と片付け始めたころに、続きを要求する)、こいつらは、獲物を狙う時だけは、おそろしく辛抱強い。
 いつまでもいつまでも、獲物から目を離さないのである。


 体操のおねえさん、こと、我が姉は、ヨメを「ハンター系」と分類する。
 おもちゃに対する狙い方や攻撃の仕方が、実に狩りっぽいのだという。
 私も、こいつは狩りをする猫だろうと思っていた。実際には外に出さないから何も取ってこないだけで、家の内外を自由に行き来する田舎の猫だったら、間違いなく、私は、野ネズミやらトカゲやらスズメやらの死骸を、毎日鑑賞させられていたに違いないと思う。
 幸い、家の中にはほとんど虫もいないので、彼女のハンター本能は発揮される場がなかったのであるが、このたび、小さいながら獲物を発見したことで、彼女は大いに燃えていたらしい。
 キャットタワーの上から、食い入るように蜘蛛を見つめ、そのまま小一時間も凝視し続けていたであろうか。
 蜘蛛が射程範囲内に入ったら、すかさず攻撃をしかける構えであった。


 しかし、蜘蛛だって、自分を狙っている猫にわざわざ近付いて来るほど、間抜けではない。
 少しずつ少しずつ位置を変え、
 
  

 

 
 
 遂には、ヨメの手の絶対届かない、照明器具の陰に入ってしまった。
 
 

 
 
 目の前で獲物に逃げられた口惜しさに、思わず遠吠えするヨメ。
 キャットタワーの上を悶えるように転がり、恨みのこもった唸り声を立てながら、ひたすら歯がみする。
 その執念の様は、恐ろしいというより、何やら哀れをさえ催すものであった。


 思えば、猫とは半端な動物である。
 ネズミ捕りの家畜としてだけでなく、愛玩動物としての歴史も長い。それでいて、その長い歴史の中でも、狩猟本能を失ってはいないのだ。
 現代、特に都会の猫は、室内飼いの保護的な環境の中、快適な住環境と食生活を享受する。しかし、その「幸せ」と引き換えに、彼らは、自らの裡に、本来まだ生きて活動している野生の本能を、眠らせなければならない。
 保護され保障された安楽な生活と、本能に従う自由な生き方と。
 本当は、とちらが彼らにとって「幸せ」なのだろう。
 そして、それは、猫のみならず、人間にも通じる問いである。


 と。
 ヨメが行き場を失った本能の叫びに身悶えし、私が人と猫の幸福のあり方について深く思いを馳せていたとき。
 どこぞより、平和な寝息が…
 
 

 
 
 曇天の午後には、ひたすら睡眠を貪る。
 まさに、彼こそは、本能の命ずるままに生を謳歌する者なのであった。