キンモクセイの咲く頃

 

  
  
 今年は、秋の歩みが遅い。
 そう実感したのは、毎度おなじみの、このお葉書を頂戴したとき。
 
 

  
  
 ああ。もう、そんな時期になったんだ。
 
 
 去年の今頃は、キンモクセイの花が満開だった。
 その透き通った香りの中を、往きは軽快に鼻歌など歌いながら、帰りはどんよりと重苦しい空気に包まれながら、動物病院まで遠乗りしたのだった。
 
 
 葉書が届いたのは、9月の下旬。
 そのころはまだ、キンモクセイなんて存在も思い出さないような残暑の中。
 正直、マジか?と思った。
 だって、こないだ、病院行ったばっかりやん。
 といっても、私は別に動物病院がキライなわけではない。むしろ、好きである。
 猫にとっては恐怖の館だろうが、人間にとっては、面白いことこの上ない。
 だが…。
 そこまで考えて気が付いた。
 動物病院からの葉書を見て、私が感じた一瞬の忌避感。その陰には、ダメを予防接種に連れて行くと、必ず叱られる(太り過ぎを指摘される)――という、昨年までのトラウマから生じる、強い思い込みがあったのだ。
 
 
 でも。
 
 
 そうよね。人間の私が、動物病院を敬遠するいわれはないわよね。
 先生だって、別に怒っているわけじゃないのだ。ただ、「痩せなさい」と言うだけで。
 自分に言われているのだと思えば、ちっとも怖くないじゃないか。
 
 

  
  
 そして。
 さらに、遅ればせながら気が付いた。
 ダメは先日のガスモチン事件で、体重が落ちている。
 だったら、さっさと行って測ってもらった方がいい。ぐずぐずしているとリバウンドする。
 まさに、今がチャンスなのだ。
 
 
 と、いうわけで。
 本日、行って参りました。
 
 
 して、結果は…。
 5.95kg。
 めでたく、6kgを切っていた。
 ちなみに、昨年は6.95kg。ジャスト1kg減。人間で言えば、10キロの減量に成功したに等しい。
 素晴らしい!!久々の快勝である。
 
 
 1ヶ月前のガスモチン事件のとき。
 確か、最初に診察台に乗せて測った時、ダメの体重は6.15kgだった。
「あ、やった。ダイエットの効果。」
 真剣な治療の場であったにも関わらず、思わずつぶやいた私の一言を先生は聞きとがめ、
「ダイエットさせてるのね!? もう、脅かさないでよ!」
 と。
 いや、確かに、させてるけどさ。
 聞き返されると、あまり自信はないのだ。
 確かに、その少し前に自宅のヘルスメーターで測った時、だいたい6.2kgくらいだなと“あたり”をつけていた。だから、一日二日の食欲減退で、そこから少しだけ減ったと考えると、ぴったり辻褄が合う。つまり、昨年の6.95kgからのおよそ0.7kgは、ダイエットの効果と考えていいはず、なのだが。
 そもそも、自宅での計測は、ほとんどアテにならない。
 毎度、自宅での計測で(しめしめ、痩せた…)と思って油断していると、動物病院でガツンとやられる。そんな繰り返しであるから、世の中にはそんなうまいハナシはないと、最初から疑ってかかっていたのである。
 さらに。
 3日間の通院の間に、体重は確実に下がっていった。
 はっきりと数字は覚えていないが、2日目が6kgちょっと。3日目に6kgを切って、5.9kgくらいだったと思う。
 ごはんを食べないと、体重はあっという間に減るのだ。
 念願の6kg切りだったが、嬉しいどころか、むしろ怖い感じしかしなかった。ムムのときだって、私がぼんやりしている間に、病気のせいで体重は落ちていた。今回のダメだって、もともと体調不良で体重が減りはじめていたのかもしれない。
 結局、本来のダイエットの効果は、全く未知数と言ってよかったのだ。
 
 
 それに、ね。
 まあ、こういっちゃナンなのだが、はっきり言うと、ダメのハラの垂れ下がり具合は、見たところ、ぜんぜん改善されていない。
 上から見た感じが、多少スリムになった感じはするが、飼い主の欲目かもしれない。客観的に見ればまだまだデブ猫なのだから。
 ダイエット成功、なんて口が裂けても言えない気がする。そんなことを口にしたら、世間様の失笑を買うだけであろう。
 
 
 と、いった、諸々の事情から、過度の期待は抱かぬよう、自らを制しながら臨んだ体重測定(じゃなかった、本当は予防接種)であったが。
 今度だけは、私の勝利であった。
 あれから1ヶ月。ダメはいたって元気に毎食完食であるが、体重は増えていない。
 と、いうことは。
 体重減に寄与したかは分からないが、少なくとも、現在のダイエット作戦は、「増やさない」ことには貢献しているのだ。
「やっぱりこの子は、このくらいの体重がちょうどいいんでしょうねえ。」
 先生が、しみじみとおっしゃる。
 調子に乗った私は、気になっていたことを訊いてみた。
「あの、このお腹が下がっているのが引っ込まないんですけど、これって、一度伸びちゃったら戻らないんですか?」
 先生は、うーん、としばし考え込んだ。
「時間が経てば、徐々に戻ってはきますけどね…。」
 その言葉に、「二度と太らなければ」という暗黙の但し書きがついていたことは、言うまでもない。
 
 
 こうして、体重については先生から合格点をもらったダメは、予防接種の後、爪を切られ、歯を調べられて、ようやく帰宅を許された。
「次は歯茎が腫れてくるでしょうね。」
というのが、先生の不吉な予言であった。
「この様子だと、10歳過ぎたら、犬歯もボロボロになって、ポロっと落ちてくるんじゃないかな。」
 そう言われたって、去年、メタボのリスクについて散々聞かされた内容に比べたら、怖さがケタ違いである。“毎日泣きながら注射することになるよ”という脅しに比べたら、犬歯が落ちてくるくらい、どんと来い、ってなもんだ。
「でも、おうちでケアできない?口を開けさせなくても、唇をまくりあげればいいんだけど。」
「ぜったいムリですっ!」
 そう。それだって、私なりに、彼の歯ぐきが気になって何度も試みたのだが、もの凄く嫌がられて全戦敗退している。先生が簡単にやってみせるのは、単に、ダメの方が恐怖で固まっているからなのである。
 歯なんか…。歯がなくたって、ゴハン食べられるって、先生、言ったじゃないですか。
「口臭がしてきますよ。」
 先生は諦め半分の表情で、しかし冷たく言い放った。
 
 
 病院を出ると、甘くすがすがしい花の香りが、秋の風に乗ってふわりと漂ってきた。
「あ、ダメちゃん。キンモクセイが咲いてるよ。」
 彼は、答えない。
 自らの口臭を恥じてでもいるかのように。
 いつか、老年となった彼を乗せて予防接種に赴く日が訪れた時、私はこの香りを胸一杯に吸い込んで、
(ああ…世の中には、こんな良い香りもあったんだわ。)
と、束の間の鼻腔の休息を味わうのだろうか。
 だが、そんなとき。
(でも、泣きながら毎日注射をしないで済むだけ、私は幸せなんだ。)
ということを、この香りとともに、きっと私は思い出せるに違いない。
 口の臭いジジイと毎晩ひとつ枕で眠る試練が、どれほど辛いものであったにしても。
 キンモクセイの咲く頃。
 この小さな幸せを、いつまでも守り通していこうね、ダメちゃん。
 だから…
 
 
 オマエ、二度と太るなよ。
 
 
 

  
 
 ところで、全くの余談であるが、今回、先生が彼の尻にワクチンの注射を打っている最中、ダメは上半身を保定している助手さんの胸の下に、ぴったりと顔を押しつけていた。
 相変わらず、怖がりなんだから…
 そんなふうに、家主は微笑ましく眺めていたのだが。
「まぁぁ、だいちゃん、私にしがみついちゃって。」
 何と、奴は、どさくさにまぎれて、若いナースのおねえさんに、しっかりセクハラしていたのである。
 
 
 口の臭いオヤジが、ちっとばかり痩せたからって、いい気なものである。 
 
 
 
 
 
 

淀屋橋心理療法センターさんの無料素材をお借りしました。)