親子の仲でも菌癬は他猫
ところで、養子候補のアタ坊が収監された後の大治郎くんであるが。
今、どうしているかと言うと。
一言で言えば
「無関心」
である。
こたつとホットカーペットを撤去してしまったので、彼は、ビーズクッション2個と、窓辺に置いた安楽椅子の上を、文字どおり渡り歩く生活をしている。
まるで、アタ坊など、最初から存在しなかったがごとく、彼のアクションは全て家主に向けられ、「メシくれ」「膝に乗せろ」といった、従来どおりの要求活動に明け暮れる毎日である。
彼がアタ坊のサークルに関心を示すのは、サークルの中のアタ坊の皿に、食物が残っているときのみ。
あまりにも割り切った、というより、分かり易い男なのであった。
何を抜かす。
テメエの首輪ハゲのとき、ヨメはそんなこと、一言も言わなかったぞ!
と、一喝してやりたいのはやまやまであるが、今回に限り、彼の言い分の方に理があるので、家主としてはこの不人情(不ニャン情)を不本意ながら黙認している。
ただし、彼の名誉のためにひとこと付け加えれば。
大治郎くんだって、最初から無関心だったわけではない。
アタ坊の突然の逮捕劇に動揺したのは、アタ坊自身だけではない。未来の養父は、それなりに驚き、心配もしたのだ。
が。
誓って言うが、これは当局の陰謀ではない。しかし、期せずして発動した陽動作戦が、大治郎氏の関心をアタ坊逮捕から奪い、彼の精神を、極めて私小説的な自己完結構造のそれへと変貌させてしまったのである。
当局は、大治郎氏の弱点を、知り尽くしていた。
彼がマタ中であった、という、その猫生最大の汚点を。
以下は、アタ坊逮捕劇のサブストーリーとして展開されたある事件の軌跡である。
当局は、アタ坊の独房にまずトイレを設置し、バスタオルとペットシーツを敷き、飲み水を置いた。
当初は、クッションさえ用意されたものである。(むしろ邪魔だったので、翌日撤去)
アタ坊は、そこに収容された。
驚愕した家族が後を追いかけ、周囲をうろつきながら、ムショ入りした息子を気遣っている様子は、傍目にも哀れな有様であった。
そのうち慣れるさ。ムショ暮らしも悪いもんじゃないぜ。
芝居がかった親子別れを、冷やかな目で眺めていた係官は、そこで、ハタと気が付いた。
そうだ。爪とぎが要る。
だが、何しろ、緊急の逮捕劇である。全ては有り合わせのもので間に合わせるしかない。
そこで係官が目を付けたのは、部屋の隅に打ち捨てられていた、段ボール製の古い爪とぎであった。
周知のとおり、段ボールの爪とぎには、たいてい「またたび粉」がついてくる。別に小袋にパックされたものが側面に貼り付けられて売られているのだが、猫の敏感な嗅覚には、その“移り香”が分かるらしい。その古い爪とぎも、マタ中の大治郎氏に散々舐められ、齧られて、すでに側面が抉れたシロモノであった。
係官が独房に投入したのは、その、散々舐めつくされた爪とぎであったのだが。
このとき、係官は思いもよらぬミステイクを犯した。
爪とぎを投入した際に、その周囲を覆っていたボール紙のかけらを、独房の外に落としたのである。
期せずして、その紙片は、またたび粉のニオイが染みついた一片であった。
この小さなボール紙のかけらが、アタ坊の運命を変えることになる。
息子を気遣って独房の周りを徘徊していた大治郎氏は、鼻腔をくすぐる魅惑の香りに、ふと、足を止めた。
抗えない、魔性の香り――彼は全てを忘れ、引きずられるように、その小さな紙片に歩み寄った。前足でつつき、鼻を寄せる。夢を見ているようだった。こらえきれず、彼はその匂いを鼻腔いっぱいに吸い込み、ゴワゴワした紙片を噛みしゃぶり始めた。
やがて、彼に弄ばれ、はじき飛ばされた紙片は、アタ坊の独房のすぐ近くに落下した。紙片を追いかけて独房の近くに戻ってきた養父の姿を見て、アタ坊の安堵は、どれほどのものであったか。
だが、“悪魔”の爪にがっちりと絡め取られた養父の変わり果てた姿は、その安堵を、失望に変える…
そして。
息子を忘れた大治郎氏と、見捨てられたアタ坊の絆は修復されることなく、「無関心」の今日を迎える――。
愛宕朗くん。
私が思うに、こんなヒトを養父にしたって、仕様がないんじゃないかねえ。
さあねえ。ハゲが治らないと。
何だ。
そのことなら、大丈夫。
キミが出所したら、いつでも会わせてあげるよ。
キミの言う「父さん」とは、
このひとのことだろう。