クレオパトラの小径
お伽噺を信じない者は、夢への扉を閉ざされている。
否。扉はいつも細く開き、現実世界の暗がりに、まばゆい光を投げかけている。だが、人はそれを見ようとはしない。夢に裏切られることを恐れるが故に。美しい夢の風景に慣れた目で、現実の醜さ・味気なさを見た瞬間の、あの冷たい絶望と向き合うことを避けるために。
だが、そんな夢を忘れた大人たちにも、お伽噺は、ある日、突然訪れる。
夢を忘れてはいけない。どんなに苦しく、辛い時でも、勇気を持って夢を見続けることが、あのまばゆい世界に至る唯一の道なのだ――と、そう語りかけるかのように。
女は、疲れ切っていた。
都会の暮らしに憧れて故郷の家を出てから、もう何年になるだろう。お洒落な生活、洗練された部屋、最新流行のファッション、そして、華やかな恋愛模様――雑誌やテレビドラマの中では、当たり前のように繰り広げられているそれらは、だが、どれ一つとして、彼女のものにはならなかった。大都会という砂漠の中、女が持っているのは、ありきたりで憂鬱な仕事と、散らかった部屋、ただ日々のやりくりと空腹を満たすことばかりを考えながら無意味に過ぎてゆく日々――それだけだった。疲れ切った体が貪るように求める睡眠だけが、唯一の喜びであり、至福の時であった。
その夜、疲れて棒のようになった足を引きずりながら、部屋のドアを開けた女の心にあったのも、このくたくたの体を今すぐに布団の上に投げ出したいという、ただ、それだけの望みであった。
だが――。
待つ人とてない、真っ暗な部屋に入り、電灯のスイッチを入れた瞬間。
女は、目を疑った。
(ここが、わたしの部屋…!?)
そう。それはまさに、お伽噺であった。
部屋の床には、無数の薔薇の花弁が、鮮やかに散りばめられていたのである。
まるで、夢の世界へと続く真紅のプロムナードのように。
何と!
素晴らしい。
今日からここを、「クレオパトラの小径」と名付けよう。
だが、私はお伽噺を信じない人間である。
当初の驚きが失せ、女の冷めた心が、奇跡の種明かしを求めた瞬間に、花弁は命を失った。カサカサに乾いた花弁。それはもともと、女の部屋の壁に掛けられたまま、色褪せるままに打ち捨てられていたドライフラワーのそれであった。
ちなみに、この写真では飾棚が傾いているように見えるが、これは目の錯覚などではなく、本当に傾いているのである。
しかし、夢は終わりではなかった。
色褪せた現実に、再び心を閉ざした女は、もはや何も思うところもなく、寝床を整え、身じまいをした。
小さな風呂で身を清めて戻ってきた彼女は、またしても、信じられない光景を目にするのである。
先ほど整えたばかりの寝床の上に、またしても薔薇の花弁が!
摩訶不思議。彼女を待っていたのは、薔薇の花弁を惜しげなく散りばめたベッドであった。
ますますもって、素晴らしい!
これを「クレオパトラのベッド」と呼ばずに、何と呼ぶ。
だが私は、布団の上にモノが乗っているのがキライな人間である。
問答無用でシーツを払った瞬間に、花弁は輝きを失った。女の手に、ボロボロに崩れた乾いた花弁のかけらが貼りついた。女は眉をしかめ、苛立たしげに、手に付いたゴミを振り払った。
いかにも。私は夢のない人間である。
だが、こんなふうに考えることは、できないだろうか。
お伽噺には種明かしがある。魔法は起こらない。だが、奇跡は起こる。
誰かが偶然に何かをしたことが、期せずしてあなたの夢を叶える。あるいは、あなたの想像もしなかった誰かが、あなたのために、あなたの望みを察して、そっと手を差し伸べる。
それこそが、奇跡ではないだろうか。
夢見続けること。それが、夢の実現に至る唯一の道である。
あなたが夢を忘れさえしなければ、どこかで、誰かが、夢の実現に、きっと何かの役を担っているのだ。
ただし、それは、悪夢である場合もある――。