猫の鑑


  
 
 少し前のことであるが、ダメちゃんの健康診断の報告を。
 
 
 昨年のダメちゃんの予防接種の際、
「もうシニアだから、今後は、ワクチンは二年に一回でいいですよ。」
と、獣医さんに言われた。
 昨年接種した後の、二年に一回だから、今年はお休みの年、ということになる。
 また、その折ではないが、
「そろそろ、毎年健康診断をした方がいい」
とも言われていた。
 と、いうわけで。
 今年は、健康診断のみのために、病院に連れて行かれたダメちゃんである。
 毎年、予防接種の時には、当然ながら視診と問診がある。体重測定と検温もある。だが、この健康診断は、血液検査やレントゲンも入るフルコースである。血液検査で調べてもらう項目も、オプションで増やせるということだったため、
「猫の負担にならないなら、できるものは全部してください。」
とお願いした。さながら「猫ドック」といったところであろう。
 ダメちゃんと玉音ちゃんは、だいたい同時期に予防接種を受けていた。そのため、二週間前に玉音ちゃんを予防接種に連れて行った際に、ダメちゃんの健康診断をお願いしたものである。
 所要時間は二〜三時間。土日でも良いということなので、土曜日の午前中を予約した。
「じゃあ、当日は、なるべく朝ご飯を抜いて連れてきて下さい。」
 え。
 そうだったのか。朝メシ抜きねえ。(うるさそうだな。)
 まあ、玉ちゃんと違って、ダメちゃんなら捕まえることはできるだろう。
 結論から言えば、あっさりと捕まえることはできた。朝、なかなか起きて来ない私の周囲でメシくれコールを叫び続ける彼を抱き上げ、布団の近くに用意しておいたキャリーバッグに押し込んだだけ。
(何という簡単さだ…。)
 二週間前のことがあっただけに、私はある意味、瞠目した。
 で。
 自分も起きて歯を磨いて顔を洗って、そのまま動物病院直行。
 彼をキャリーの中で待たせておいて、自分が朝ご飯を食べる勇気はなかった。
 ついでに、他の二匹も、朝ご飯はお預けとなった。
 ボス猫が我慢させられている目の前で、下っ端風情が、自分たちだけで食事をするとは如何なものか。
 と、思ったのは、多分私だけだろう。
 ごめんね。おじさんを病院に置いてきたら、すぐ君たちのご飯を出すからね。
 
 
 かくして、動物病院到着。
「じゃ、昼前に迎えに来ます。」
 と、置いて帰ろうとしたところ、
「採血する間、飼い主さん、傍にいて、顔を撫でてあげてください。」
 とな。
 何と。
 それじゃあ、私と下っ端二匹の朝ご飯は、さらにお預けなのか。
 まあ、仕方がない。ボス猫はそれだけ偉いのだ。
 と、いうわけで、そのボス猫の採血。
「後脚から採りますから、顔を撫でてあげてください。」
 はいはい、分かりました。
 で。
 ダメちゃんが後脚を出すと。
「まあ。立派な筋肉。」 
 まず、筋肉を誉められた。(確かに、ローストチキン的に美味しそうだと思ったことはある。)
 ところが、なかなか採血が始まらない。
「血管が見つからないんですか?」
「いえね。血管は太いんですけど、」
 ――あ、やっぱり太いんだ。
「筋肉が発達し過ぎてて、血管が埋もれちゃってるんです。」
「・・・・・。」
 この発言には、どうリアクションすれば良かったのか。今もって分からない。
 そうこうしているうちに、ようやく埋もれていた血管は発見され、先生は、多分、上手に針を刺したのだが。
「あー、上がってこない。うーん、無理か。反対の脚にしましょう。」
 反対側の後脚、以下同文。
「仕方ない。腕にしましょう。頭隠して。」
 最後の一言は、助手さんへの指示出しである。何でも、前脚から採血しようとすると、暴れちゃう猫が多いのだそうだ。それゆえ、なるべく後脚から採るのだと。
 などと人間同士は会話しつつ、ほとんどどさくさ紛れのように腕をつかまれた大治郎くん。
「まあ、すごい毛。」
 今度は、毛深いのに感心された。(ここもリアクションに困る。)
「すみません。少し刈ります。」
 と、いうわけで、採血に先立ち毛刈り断行。刈っているところを見ていると、脳裏に稲刈り機のテレビCM(今どきは見ないけど)が無声映像となって流れ出す。意外と腕の毛って長いんだな。あ、それ、ダメちゃんだけか。
 そんなわけで、採血の時間に毛刈りの時間が加わり、一般猫よりも長く保定されていたはずのダメちゃんであるが、いざ採血となっても、暴れるどころか、声一つ立てず、必死に耐えていた。
 おかげで、一発で採血終了。
「こんなことなら、最初からこっちで採ればよかった…。」
 この台詞、先生と助手さんが、ほとんどハモっていたような気がする。
 そうだよね。
 そうすれば、ダメちゃんも、三回も痛い思いをしなくて済んだよね。
「ダメちゃんは、暴れません。」
 私がその一言を、言えればよかったのだ。自信を持ってその言葉を口にすることができなかったのは、二週間前のトラウマがあったからだろうか。 
 
 

  
 
「じゃ、一休みしてからレントゲンとエコー撮ろうね。」
 ここで飼い主はいったん退散。一時間余りの後に迎えに来ることになった。
 帰宅すると、下っ端どもは、すでにそれぞれの場所で、寝に入っていた。
 ボスの留守中に自分たちだけいい思いをしようという考えはないらしい。感心な連中である。(勝手な解釈)
 ま、あと一時間もしたら、ダメちゃんも戻って来るんだし。猫メシは、その時に一緒でいいか。
 洗濯機を回し、洗濯物を干し終わると、ちょうどいい時間になった。
 再び動物病院に向かい、診察室でダメちゃんを受け取りつつ、半ば社交辞令的に、
「ご迷惑おかけしませんでしたか?」
 ここで、先生と助手さん、再びハモる。
「いいえ、全然!!」
 あまりの力の入りっぷりに、思わずたじろぐ飼い主。
「全然暴れません!こんなに我慢してくれる猫、いませんよ。」
「全ての猫が、こういう子だったらいいのに。」
「飼い主さん、自慢していいですよ。猫の鑑!!」
 ね、猫の鑑・・・。
 誉めすぎじゃないだろうか。
 でも、これで、二週間前に玉音がおかけした迷惑はチャラってことですよね――と、心の中で独り言つ私。
 下っ端の失態の尻拭いまでしてやる。なんて感心なボスだろう。
 でもね。
 白状すれば、こういう答えを期待していたところは、最初からあったのだ。
 ダメちゃんはとにかく我慢強い。何しろ、やる気のない飼い主のお陰で、何事にも我慢する訓練だけは、嫌ほど積んでいるのだから。(威張ることじゃない。)
 でも、せっかく誉めてもらったから、調子に乗って、さらに誉めてもらっておこう。
「この子は、凄く良い子なんです。何しろ、家屋に全く被害を及ぼしません。」
 これは本当である。ダメちゃんが家屋にキズをつけるような行為をしたのは、初めて我が家に来た十一年前、何かでパニックになって障子の桟を登り、障子紙に何箇所か穴を開けた時だけ。それにしたって、当時は普通の障子紙を貼っていたにも関わらず、障子紙を引き裂くようなことはなく、爪が刺さったときの小さな穴が開いただけだった。(註:当時はダメちゃんも普通サイズの猫だったので、障子を登っても桟が折れるようなことはなかったのである。)
「すごいわねえ。本当に、良い猫ねえ。」
 しかし、大絶賛を受けて気を良くしているのは飼い主だけで、当の本猫は、渋面を作ったまま、キャリーの底に狭そうに座りこんでいた。
(喋ってないで、早く帰ってメシにしてくれ。)
とでも、言いたげに。
 
 
 帰りがけ。
 ふと思いついたように、先生が話しかけてきた。
「そうそう。この子、ちゃんとウンチ出てます?」
「うーん、ここ二日くらい、出てないかな。」
 そこで、レントゲン写真を見せられた。
「この辺がもやもやしてるでしょ。ちょっと便秘気味かなと思ったんです。」
 便秘!!
 言われてみれば――そうかも。
「そう言えば、このところ、毎日は出てないです。前はほぼ毎日でしたけど。」
「何か環境の変化がありましたか?」
「ないですけど。」
 そこで、ハッと思い当った。
「あ、フードを変えました。」
「多分、それですね。」
 そんな。つい先日、長い時間をかけてやっと切り替えを完了したばかりなのに。
「猫の便秘は怖いんですよ。巨大結腸症になっちゃうから。」
 巨大結腸症!!
 そういう病気があることは知っていたが、まさかダメちゃんにその危機が襲ってくるとは。
「猫は、便が溜まってくるとね、触ってみて分かるくらい、お腹がカチカチになっちゃうんですよ。まあ、大治郎くんは、お腹がプックリしてるから分からないと思うけど。」
「・・・・・。」
 何だろう。
 ダメちゃんは確かに、“猫の鑑”なのに違いない。
 だけど――。
 何故に、こう、いちいち突っ込みどころが多いんだ、キミは!?
 
 

  
 
 こうして、ダメちゃんの初「猫ドック」は終わった。
 後日、先生から電話があり、血液検査の結果も異常なしだったとのことである。
 その後のダメちゃんの便秘対策と、フードの変更に関するいきさつは、また別の機会に書こうと思う。
 最後の最後、突然に降って湧いた便秘問題に落胆を隠せない私に、先生がかけてくれた一言。
「まあ、歳をとると、いろいろありますよ。人間と同じで。」
 そうだよね。
 だからこそ、健康診断を受けさせたんじゃないか。指摘してもらってよかった。
 後でつらつらネット検索したところ、猫はそもそも便秘になり易いのだそうである。また、先生がおっしゃったとおり、放置すると割と簡単に(というのが私の印象なのであるが)、巨大結腸症になってしまうらしい。便秘は侮ってはならない、と、あちこちに書いてあった。
 これまで猫を飼っていて、下痢の心配をしたことはあったが、便秘と向き合ったことはなかったため、こういった知識もなかった。まだまだ自分も猫飼いとして半人前だな、と、改めて自覚した次第である。
 猫の鑑は、猫飼いの教育者でもあるのだ。
 
 
 ところで。
 ここまでとは全く関係のない話であるが、友人の一人が本を出した。
 
 

  
 
猫の日本史」。洋泉社の新書である。
 なお、友人というのは、編著者の桐野作人先生ではない。共著のライターの方である。
 歴史マニアだということは知っていた。また、話の上手な人なので、絶対に面白いものを書くだろうと期待していたのだが、出来上がった本をパラパラとめくってみて驚いた。
 これはまさに、猫トリビアの泉ではないか。
 歴史本としても読みごたえがある一方、語り口が柔らかいので、歴男・歴女でない人(例えば私)でも面白く読めると思う。卑しくもニッポンの猫馬鹿を自覚する方々には、是非ともご一読をお勧めする。
 友人が書いたから宣伝に一役――という魂胆は、もちろんあるが、それ以上に、本当に面白いと思うので、購入しないまでも、図書館で借りるなどして、読んでみてください。(あれ?営業妨害してる??)

  


(猫の鑑近影)