マクシミリアンの肖像(後篇)
わたしは自分で猫を選んだことがない、と、さくらは常々話していた。
これまで家にいた猫は、すべて、向こうからやってきた猫だと。
私が名前を知っている限りで、さくら家が飼っていた、あるいは、世話をしていた猫は八匹いる。その子たちはいずれも、戸外で保護した猫だったり、行き場がなく引き取った子だったり、あるいは、さくら以外の誰かが貰ってきた猫だったりで、彼女自身が恣意的に選んできた子は一匹もいない。私のように、「どの子を飼うか」という悩みを、彼女は経験したことがないのだ。
(私自身は、実家で飼っていたななと、玉音を除き、全て自分の意思で迎えた子たちである。りり・ミミ・ダメ・ムム・アタゴロウの五匹は、全て自分で指名して貰い受けた。初代猫のジンは近所で野良をしていたのを保護した子だが、もともと飼いたくて狙っていた猫である。)
だからこそ、彼女は本当に悩んだのだ。
猫好きあるあるで、彼女も私も、「こういう猫が好き」という基準は持っているはずなのだが、実はそんなものはあってないようなもので、猫でさえあれば、ストライクゾーンは限りなく広いのである。「運命を感じる子」と言われても、どの子にもキュンとなってしまうので、どれが運命なのか判然としない。
さくらがその店にいるときに兄貴が怪我をし、ついでに彼の苦労譚を聞いてしまったこと、そして、兄貴自身が、そのトラブルシューター的な役割に疲れてきているようだ、と、知ってしまったことは、さくらに「これは、自分が兄貴を貰うべきだという暗示なのかも」という刷り込みを作るに充分な理由付けだったのだろう。つまるところ、踏ん切りをつけるための「きっかけ」を彼女に与えることができたのが、たまたま兄貴だけだった、と言っても過言ではない気がする。
つまり、ね。
ぶっちゃけ、本当は、ふたりの間に、ビビビ…と通い合った“何か”なんて、最初からなかったのだと思う。(そもそも、誰もそんなことは言ってない。)
従って、愛のファンタジーも、成立しない。
兄貴は、辛い過去を背負う孤独な男でも、自身の欲望を満たすために母娘を手玉に取る危険な男でも何でもなく、普通のシャイでちょっとおデブなキジ猫だった。そして、さくらの方も、愛する男を失い悲嘆にくれる女でも、恋人を捨てて危険な男に身を任せてしまう純情可憐な乙女でもなく、単に、ステイホームもありそろそろ猫が欲しくなったところに、早急に猫カフェを引退させたいという、たまたま好みの顔の猫に出会い、ちょうどいいからこの辺で決めるか、と、現実的な選択として、そのキジ猫を貰い受けた普通のOLなのだった。
私の妄想は終わった。
自分自身のことならいざ知らず、友人や、そしてひとんちの猫にまで、勝手な役割を押しつける、自分の身勝手さを、私は謙虚に反省した。(かどうかは定かではない。)
が。
ここにきて、また、余計なことを言いだした者がいた。
こっこである。
何を思ったのか、突然、兄貴のことを「マクシミリアン」と呼びだしたのだ。
さすがのさくらも、これには驚いた。
「えっ!? それはどなた!?王子様!?」
そこまでは良いのだが。
「うちのはむしろ、これに似てる」
と、送ってよこしたのが、これまたどこから見つけてきたのか、昼寝する「エゾタヌキ」の動画であった。
どっちもどっち、だよなあ。
そこで、この混乱を収拾すべく、「マクシミリアン」と「エゾタヌキ」をつなぐ、兄貴の役名を、私が考えてあげた(えらそう)。
名付けて、
「マクシミリアン・エゾンターヌ・ド・サクラデレ」。
こうして、私の妄想は復活した。
ちなみに、ミドルネーム「エゾンターヌ」であるが、何となく中世風の名前である。これはおそらく、十字軍で活躍した先祖の名にちなんだものであろう。
以下に、エゾンターヌ卿の来歴を記す。
マクシミリアン・エゾンターヌ・ド・サクラデレ。
貴族(軍族)の家系に生まれる。横暴で厳格な父親に厳しくしつけられ、少年時代は孤独であった。青年期に至り、父親への反発と、唯一愛した母がつまらぬ男に誘惑され不貞を働いたショックから家を出、放浪のうちに傭兵隊長となる。(後日、母は夫に離縁され、男にも捨てられて、失意のうちに修道院に入った。)
マクシミリアンはその獰猛な闘いぶりから「ブラックマックス」「死のトラ」などと呼ばれ恐れられたが、孤独な心は満たされず、次第に荒んだ生活を送るようになる。
不摂生から健康を害しはじめていた三十九歳のとき(※)、体調不良を隠して戦場に出るも、すでに往時の勢いはなく、乱戦の中で消息を絶つ。その後、湖の底から愛用の剣が引き上げられたことから、彼はそこで死んだものとみなされた。
だが、「死のトラ」は不死身であった。船上で相手の剣をかわしとっさに飛び込んだ湖で、辛くも溺死を免れて岸に流れ着いたところを、通りかかった一人暮らしの未亡人に助けられたのである。こうして九死に一生を得た彼であったが、剣を失い、戦場での怪我から馬に乗ることもままならず、俺はもう戦えないのだとやさぐれて、女の家で飲んだくれた結果、見るかげもなく丸々と肥え太ってしまう。
丸々と肥え太って、ねえ。
まあ確かに、丸々は言い過ぎかもしれない。
だが兄貴の写真を見ても、どうやら胴周りがしっかりと太いらしいことは分かる。ウエストがくびれている印象がない。さくらによれば、「固太り」の「樽体型」だそうだ。ついでに、手足も太い。
運動させなきゃ、と、最初からさくらは言っていた。未亡人もそう思ったに違いない。やる気のない人や猫を動かすのは、なかなかに難しいことではあるのだが。
だが、この話には続きがある。
しかし、あるとき、彼は知ることになる。彼を助けた未亡人の夫の仇が、かつて彼の母親を誘惑した男であることを。
このときから、エゾンターヌは生まれ変わった。
酒を断ち、体を鍛え、森の木々を相手に武術の稽古に励む。深い森の奥に隠れ住む隠者を訪ね、その教えを請い、精神を叩き直す。そして、苛烈な鍛錬の日々の中で出会った宿なしの少年(未亡人の鶏を盗もうとして彼に捕まった)を、友人兼従者として、今や横暴な領主(か国王)の黒幕参謀として権力を握る、宿敵との対決に向かうのである――。
私がさくらとこっこの二人に伝えたのは、このハナシの前半部分+彼の宿敵の正体、なのであるが。
これを受けてのこっこのコメントは、
「キャスティングは、オフのときの太ったレオ様で。」
であった。
いいねえ。ぴったり。
私はレオ君の、「正統派ハンサムのはずなのに、何故か分からないけど何となく胡散臭い」存在感が好きなのである。
(レオ様ファンの方、ごめんなさい。でも、「華麗なるギャツビー」なんて、正にはまり役だったと認めて良いのでは。)
それと比較してみると、兄貴は固太りでニャン相も悪猫面なのだが、実は造作としてはなかなかに整った顔立ちである。美形なのに胡散臭い、陰で悪いことしてそう、だけど、ココロは純粋――通じるものがあるではないか。
(レオ君こういう表情するよね…と、思うのは私だけ?)
まあ、ね。
こうやって、物語を昭和ロマンスから西洋活劇にすげ替えてみたところで、
「じゃあ、宿敵を倒した後、マクシミリアンはどうなるの?」
と、尋ねられると。
王道と考えられる結末は、以下の三つであろう。
その1。未亡人と結婚し、土着の騎士として穏やかな生活を送る。
その2。未亡人とは抱擁を交わしただけで別れ、再び戦いと放浪の生活に戻る。
その3。未亡人と少年を連れて故郷に戻り、弱者の痛みが分かる慈悲深い領主となって母と再会する。
だが、疑り深い私は、そこにも疑問を抱くのだ。
どの道を選んだところで、彼はまた、酒を飲み始めるんじゃないかな、と。
なぜって。
復讐を遂げてしまったら、きっと彼は、目標を見失うだろうから。(※※)
強いて言えば、「その2」の場合に関しては、そもそも目標もへったくれもないわけだが、元の荒くれた生活に戻るわけだから、飲みっぷりも元に戻ると考えるのが自然であろう。
まあ、こうした時代や世界観の中では、「オトコは強くてなんぼ・酒が飲めてなんぼ」という価値基準だろうから(根拠なし)、それでも、昭和の演歌的ロマンスよりは、ずいぶん明るい印象ではあるのだが。
と。
ここまで私の妄想に付き合って下さった皆様。
妄想ゆえやむを得ないとはいえ、「下らない」「どうでもいい」「馬鹿馬鹿しい」といった類のご批判については、一言だに返す言葉はなく、甘んじて受けようと考える私なのであるが。
ただね。
ひとつだけ、言い訳はあるのですよ。
「どうして常に、兄貴は酒飲みキャラにされちゃうのさ。」
と、いうご不満に関してだけは。
だって、仕方ないじゃない。こんなポートレートを見せられたらさ。
(※)その後の研究により、今日では、このときマクシミリアンはもっと若かったとする説が有力になっている。研究者の間では、遅くとも二十代後半から三十歳くらいとするのが定説である。
(※※)エゾンターヌ卿のその後であるが、民間伝承によれば、未亡人宅の近隣に出没する謎の多足生物(昨今の研究によりダイオウグソクムシと判明している)の征伐に情熱を燃やすようになり、再び酒に溺れて道を踏み外すことはなかったという。また、未亡人の協力により、空中浮揚の修行を行っていたという記録もあり、その滞空時間は少なくとも十秒に達していたことが、彼女自身の証言により確認されている。